ウォーフ仮説の神髄

違う景色が見えている少年 勉強

言語は思考の道具

言語は単なるコミュニケーションの手段ではありません。私たちの思考や認識の枠組みそのものを形づくる力を持っています。この記事では、ウォーフ仮説と認知科学の視点から、子どもの言語習得が世界の見方にどう影響するかを探ります。

以前「言語の違いが世界の見方を変える:学びの可能性を探る」で紹介したウォーフ仮説ですが、認知科学者である今井むつみさんが、

「子どもが言語の学習によって得るものは、はかり知れないほど大きい。言語を学ぶことは、コミュニケーションの手段を得ることである。言語で互いの意思や気持ち、考えを伝え合うことができる能力は、人間と動物を隔てる大きな違いである。しかし、言語が子どもにもたらすものは、単にコミュニケーションの手段にとどまらない。子どもは言語を学ぶことで、それまでと違った認識を得る手段を得、思考の手段を得るのだ。」と著書「ことばと思考(岩波新書)」で伝えてくれています。

ウォーフ仮説とは? ― 言語が認識に与える影響

ウォーフ仮説は「言語が思考や認識に影響を与える」という考え方です。色や数の捉え方が言語によって異なる例を通じて、言語が「認知のレンズ」であることがわかります

この仮説は子どもの発達という具体的な文脈でも有用なヒントを与えてくれています。言語は単なるコミュニケーションの道具ではなく、世界をどう理解し、どう考えるかという世界の扉の鍵でもあるのです。

ちゃ
ちゃ

こんにちは。

「ちゃ」と申します。

娘が3人います。

言語聴覚士として働いています。

コミュニケーションについて沢山考えたいです。

子供達には英語を身につけて、世界中の人とコミュニケーションを楽しんでもらいたいです。

そのために、できる事を日々考えています。

少しでも背中を見てもらえるようにと、英検1級等を取得しました。

言葉を学ぶことは、意思を伝えるコミュニケーションのツールだけではなく、世界を新しく見る方法を手に入れる事です。

言語は、私たちの思考の枠組みそのものを形づくる力を持っているのです。

たとえば、色の名前が豊富な言語を話す人は、色の違いに敏感になると言われています(「暗い」か「明るい」かでしか色を表現しない言語もあるそうです)。逆に、数の概念が限定的な言語環境(私達が当然のものとして使用している10進法ではなく、世界には数を単に単数か複数かで表す言語もあるそうです)では、数を抽象的に扱う力が育ちにくいこともある。こうした例は、言語が認知に与える影響を示すものとして、ウォーフ仮説の支持材料となっています。

子どもにとっての「言葉を学ぶ」意味

この様に、認知科学の視点からも、言語習得は単なる語彙の獲得ではありません。言葉を学ぶ事は、思考の道具を手に入れる事なのです。子どもは言語を通じて、物事の分類、因果関係、時間の流れなど、世界の構造を理解していきます。

「子どもは言語を学ぶことで、それまでと違った認識を得る手段を得、思考の手段を得るのだ。」

この言葉は、ウォーフ仮説の核心を伝えてくれています。言語は、世界をどう見るか、どう考えるかという「認知のレンズ」になるのです。

言葉の力を育てるという事

この視点から見ると、教育における言語の扱い方も少し変わってきます。語彙を増やす事は、単なる暗記ではなく、思考の幅を広げる事です。対話を通じて概念を深めることは、認識の精度を高める事になります。そして、異なる言語に触れる事は、異なる世界の見方を体験する事なのです。

言葉を学ぶ事は、単に話せるようになる事ではありません。世界をどう理解し、どう関わるかを形づくる営みなのです。

私達にとっての言葉は「コミュニケーションのための道具」としかとらえていない事が多くあります。

しかし、それは私達が接している世界の捉え方を整理したり広げたりしてくれています。

世界が広がる

つまりそれは自分の視野や感じ方が広がる事です。例えば、知らなかった価値観に触れたり、今までの「当たり前」が揺らいだりする瞬間の事です。都会の雑踏しか知らなかった私が、田舎の静けさや星空の明るさを知った感動みたいなもの。その時は音も匂いも、時間の流れさえ違って感じました。

言語を学ぶ事で、子どもたちは新しい価値観や文化に触れ、視野が広がります。都会しか知らなかった私が田舎の静けさに感動したように、言葉は世界の感じ方を変える力を持っています。

「言葉の力が世界を広げる」というと、外国語を学ぶという事に帰結しそうですが’、それだけではなく、(日本語でも外国語でも)言葉を覚えてそれを使うこと自体が私達の日常的な認識と思考(見る事、聞く事、理解する事、記憶し、思い出す事、予想する事、そして学習する事)を広げる事に繋がります。

もちろん外国の言葉を学ぶ事も、その様な広がりを助け、私達の心や生活を豊かにしてくれます。それは単に幅広いコミュニケーションの手段を得るという事にとどまらず、世界の感じ方が広がるという事です。

「ことばが無くても通じ合える」等というセリフがどこかの映画やドラマで感動的なシーンで出てきそうですが、その通じ会う事の元となる「気持ち」の幅が言葉で広がるという事です。

言葉を学ぶことは、世界を広げることです。ウォーフ仮説が語るように、言語は単なるコミュニケーションの手段ではなく、私たちの認識や思考の土台となり、感じ方や価値観にまで深く影響を与えます。

例えば、英語には “I miss you” という表現がありますが、日本語では「会いたい」や「寂しい」と訳されることが多く、感情の焦点が微妙に異なります。英語では「あなたがいないことによる喪失感」に焦点があり、日本語では「自分の感情」や「再会への願望」に重きが置かれる傾向があります。こうした違いは、言語が感情の捉え方にまで影響を与えていることを示しています。

子どもたちが言葉を通して新しい世界に触れるとき、その心はより豊かに、より自由に広がっていきます。

言葉を学ぶことは単なる知識の習得ではなく、世界との関わり方を育てる営みなのです。子どもたちが新しい言葉を覚えるたびに、その背後にある文化や価値観に触れ、他者への理解や共感の力を育んでいく。それは、未来を生きる力そのものです。

そして言葉は、心の地図を描く道具でもあります。その地図が広がるほど、子どもたちはより多様な世界、そして自由で広い世界を旅することができるのです。

聖書にある言葉

「始めに言葉ありき」は、新約聖書『ヨハネによる福音書』の冒頭にある言葉で、原文では「In principio erat Verbum(ラテン語)」や「ἐν ἀρχῇ ἦν ὁ λόγος(ギリシャ語)」と書かれています。

この表現は、「世界の始まりには『言葉(ロゴス)』があった」という意味で、ここでの「言葉」は単なる言語ではなく、神の意志や理性、創造の力そのものを指しているとされています。

クリスチャンではない私がこの言葉を聞いた時、「ピン」ときませんでした。「神様の言葉が書かれた聖書を大切にする事ということかな?」ぐらいの印象でした。

「なんでこんな事がいちいち冒頭で書かれているのだろう?」とさえ思いました。

「ことばが私達が接する世界の見方や感じ方を形作る」ということ事を意識すると、この言葉の意味深さを考えずにはいられません。

聖書もウォーフ仮説も奥深いとつくづく思います。

子どもたちに言葉の力を

言葉を学ぶことは、未来を生きる力を育てる事とも言えます。子どもたちが新しい言葉に触れるたびに、世界は広がり、心は豊かになります。言語の力を信じて、日々の学びを大切にしていきたいです。

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