聴覚障害者の社会参加

障害者について

実際に聴覚障害者と働いて

 現在、私が勤めている施設で1人、聴覚障害者がおられます。入職されて約8年ほどになりますが、彼女が就労される過程で、問題が無かったとは言えません。現座は毎日、安定して働いていただけていますが、今の形になるまでに紆余曲折しました。耳が聴こえないという事がどういうことなのかを周りの私達も具体的に理解できていませんでしたし、本人も聞こえないことで起こる弊害が想像できていませんでした。

 私達の職場は重度心身障害者の生活介護施設です。そこにでは地域に住む重度心身障害者が自宅やグループホームから毎日通所され、平日の日中に、仕事やリクリエーションを行っています。重度肢体不自由者のための入浴設備もあり、家などで普段入浴ができない方等に入浴サービスも提供しています。

この様な施設で冒頭の聴覚障害者の方も、はじめは支援員として勤務されていました。勤務態度は真面目で、遅刻をすることも無く、問題なく支援員として働いてくださっているように見えました。しかし、1年もたたない頃から、一緒に働く支援員から「一緒に働くことが負担」という意見が出始め、最終的には「彼女を雇い続けるのであれば、私が辞める」という人まで出てしまいました。

 一つの原因としては、「聞こえないスタッフに配慮しながら介護をする事の負担感」でした。音が聞こえない事でどの様な不都合が起こるかというのは、本人を含め周りのスタッフも一緒に働いてみないと分からない事がほとんどです。そのような事を日々、常に予測しながら、重度の障害がある利用者のケアをする事は想像以上に周りのスタッフにとって、負担となっていました。利用者の安全への配慮と聴覚障害者への配慮の二重の配慮を必要としてしまったわけです。

この様な状況で、同じ給与体系で働いていることに対しての不満も同時に発生してしまいました。

 また、もう1つの原因は共通認識を持つことの難しさでした。介護対象の利用者は重度の障害を負っており、繊細なケアを必要とします。SPO2モニターや人工呼吸器のアラーム音はもちろん、呼吸音の変化等少しの様子の変化等を読み取る事も必要な場合があります。この様な事を支援員は普段からのお互いの声掛けをはじめとするコミュニケーションや雰囲気の中で自然に学ぶ事ができています。「習うより慣れろ」という事です。しかし、聴覚に障がいがある方にそうでない人と同じペースで「慣れろ」と言っても難しい事は容易に想像がつきます。

何か教えてもらったり指示を受ける時に、言葉の内容だけでなく、声のトーンや大きさ等によって、メッセージを受け取る側の印象は違います。ちょっとしたニュアンスですが、その様な非言語的に受け取ってほしいメッセージも伝わりにくい事があります。例えば、「危ない」と大きな声で言われるのと、ボソッと言われるのでは、その危険性や重大性は全く違ってきます。(読唇をある程度できる方ですが、)口の動きと筆談だけでその様な雰囲気でつかみ取ってほしい情報はなかなか提供できません。そのため、様々な状況下での共通認識を持つ事が難しく、早急に対応しないといけない事があったりしても、いつもと同じペースで仕事を進めてしまい、他の人が彼女の代わりに対応しないといけなくなってしまう事がありました。

 介護の仕事はデスクワークとは違い、日常的に利用者に合わせた臨機応変な対応をしなければならない事が多くあります。その様な仕事を機械的にできる様にマニュアル化をする事は困難でした。

この様な理由で、離職者が出かねない状況になりました。結局、その聴覚障害者の方には介護の現場から離れていただく事にしました。現在は、単純な事務作業を事務員の補助的な立場でを担ってもらっています。最初は、彼女も「介護の仕事で他人のために働く」事にやりがいを見出して、この仕事をしてくれようとしたのだと思いますが、その意に反した形になってしまっているのです。

 聞こえない事により起こる弊害というのは、想像以上に沢山あるようです。しかし、それは予測が難しく、何かが起きたり、当事者でないと気づけない事が沢山あるようです。

福祉施設なので、皆が「ノーマライゼーション(社会的マイノリティを含めた全員が、ノーマル(普通の)な生活ができる環境を作る事)」や「インテグレーション(福祉サービスの対象者が、差別を受けることなく地域社会の中で暮らしていけるように援助する事)」を分かっていない訳ではありません。また、「合理的配慮(障害者の権利が健常者のそれと同じように保障されると共に、教育や就業、その他の社会生活において平等に参加できるよう、障害特性に合わせて行われる配慮の事)」を利用者に対しては常に意識しているスタッフがほとんどです。

しかし、この様に「頭ではわかっているけども、実際は気持ちに負担感が多い」という事で、周りのスタッフが苦悩していました。また、「福祉に従事している者として、その様な事に配慮すべきなのは当然なのに、できない自分に余計に苦しんでしまう」という葛藤が生まれた人もいたようです。

結局、現在彼女には事務や施設内の仕事でできる、資料の印刷や物品の洗浄業務を担ってもらっています。

考えられる要因

 もちろん、もっと突き詰めて、マニュアル化を行い、誰もができる環境作りが必要かもしれません。しかし、それには「trial and error(試行錯誤)」が必要です。文字通りそれを行うには失敗(error)も必要で、失敗を含めた積み重ねを要します。(もちろん介護にも失敗はありますが)、人命が関わってくることもあるため、取り返しがつかない失敗もあります。この事をふまえると、このマニュアル化には想像以上に時間が必要です。

 この様に、彼女の周り(環境)もこの問題の原因ではありますが、彼女自身にも(もちろん)原因はあると思います。それは、単に「耳が聴こえない」という事だけでなく、「何が問題か彼女自身が整理できない」という事です。

 何か問題が起こると、周りは彼女にその事を指摘し、周りも彼女も「ああ、そうか。呼吸音が聞こえないから、利用者の様子がおかしいのに気付かなかったのか。だったら、呼吸管理が必要なこの利用者の見守りはしてもらえないな」等となるわけです。しかし、1つこの様な事例があっても、なかなかその事例を汎用して他のケースを考える事ができず、周りに指摘されるまで気づきません。

 もし、彼女自身が周りの状況と自身の事を頭の中で整理して考えてもらえれば、働き方を提案していただく事もできるのですが、そのようなことは余りありません。(もしかすると、あったかも知れませんが、記憶している中ではそのような意見をいただいた事はありません。)

 単に、「彼女自身が考えない事も原因」と断罪したいのではありません。これは障害の二次障害の様なものだと思います。先天的に耳が聞こえない事で、考える機会の何パーセントかを喪失してしまったのだと思います。

つまり、私達は普段から手軽に話し言葉で周りの人と話、些細な事でも物事を頭の中で整理する練習ができています。たとえ、周りに人がいなくても、部屋でテレビやラジオがついていたりし、家事等他の事をしながらでも、その耳から入った情報を頭で整理して、考える事ができます。しかし、聴覚障害があると、その様な機会がなくなり、普段から思考の練習をする機会を損失してしまっていると考えられます。

 この様な事でその彼女も、仕事をする上で、自身で考え行動する事が少なく、他人に言われるがままに、仕事をする事になってしまっているのだと思います。

9歳の壁

 「9歳の壁」という言葉があります。

聾教育には「9歳の壁」ということばがある。これは主に助詞、副詞等の機能語の習得が容易にできなかったため、抽象的思考が十分にできないとか、文章能力を含めてコミュニケーションのレベルが小学3、4年程度で停滞してしまうようなことを指している。

特集/聴覚障害者のコミュニケーション ろう者コミュニケーションの諸問題 (dinf.ne.jp)

 短大を卒業している彼女と接していて、思考能力が「9歳」で停滞しているとまでは言いませんが、様々な場面でこの「9歳の壁」がまだ根っこにある印象は受けます。

「聴覚障害児の文章題の指導を通した「9歳の壁」についての一考察」の中で神戸親和大学の銀 屋 伸 之氏は『「9歳の壁」を「直観的思考から具体的操作」へ向かう山の峠の一道標とみるならば、これを超えるための基礎力を十分につけていく必要がある。つまり、具体的操作期以前のレベルでの豊富な生活経験を再体制化(イメージ化)することが基盤になる。』と述べられています。

 私達が普段経験している事は知らないうちに、思考を重ねる経験の基になっています。

例えば先日、スーパーマーケットの駐車場で、あるドライバーが他のドライバーに対して、「こらー!そこ一方通行やんけー!邪魔じゃボケー!」と叫んでいることがありました。それを見ていた12歳の娘は「カッコ悪いな(私はあんな事はしたらあかんな)」とボソッと言っていました。こんな経験を一つとっても、彼女(私の娘)にはこのようなちょっとした具体的な経験が未来の行動のになっていると思います。これは、もし聴覚障害があるとできない経験です。

 この様に、聴覚に障害があると、少しずつできる経験が減ってしまいます。それはとりもなおさず、思考する練習(経験)機会が阻害されてしまっているという事です。この事を理解した上で、聴覚に障害がある方は様々な経験や勉強を積み重ねる必要があると思います。

心理的障壁

 この様な「思考を重ねる経験が少ない」という事は聴覚に障害があるという身体的な原因だけでなく、それがもたらす心理的な部分も原因となっていると思います。

 以前から、主にスタッフとの意思疎通に使用してもらうために、A5サイズのホワイトボードとそのマーカーを持ってもらっていました。しかし、勤務中にそれを使用する場面はあまり見られず、スタッフとのコミュニケーションは主に業務にかかわる日常的な事(「お茶を準備する」や「鞄からタオルを出す」)に留まり、言葉の代わりにジェスチャーや表情での意思疎通に終始している場面を多く見かけました。

他のスタッフ同士であれば、「この利用者が今こんな表情になったけど、どう思う。私はこう思う。」や「この利用者に対してのこの支援の仕方は…という理由で、面白かったと思う。」等と利用者の内面を考察しながらのちょっとした会話がありますが、彼女とのやり取りで、(ホワイトボードを使えばできる事ですが、)その様な場面を見たことがありません。

 主な理由は、「ホワイトボードを出して書く事をするほどの必要性が無い」という事だと思います。もちろん、もし彼女の方から、その様な話をホワイトボードを使って伝えてくるとすると、それに応えるスタッフも多くいると思います。しかし、そのような場面をあまり見ません。

必要性が無くても、やっている事や言っている事は沢山あり、その様な経験を通して、考える練習が普段からできているのは先に述べたとおりですが、聴覚に障害があるために、必要最低限のコミュニケーションに留まりがちになります。

 また、以前に「職場以外に通勤時や普段の生活でもホワイトボードを持ち歩いてはどうですか?」と尋ねたことがあります。その時の彼女の回答は「いらない。私は聴覚障害者以外とは結婚しません」というものでした。

「別に聴覚障害者ではない配偶者との会話で使えるという事ではなく、普段から色々な人と意思疎通ができると思うのですが」とその場では伝えたので、彼女も納得をあまりしていない表情のままでしたが、頷いていました。(実際に、それ以降も職場以外でホワイトボードを持ち歩き、それを使ってコミュニケーションを他人と積極的に取ろうとはされていないようです。)この様に、(ホワイトボードを普段から使用する事で、色々な人とのコミュニケーションが広がり便利なのではないかという)文脈をしっかり捉えず、言葉の上澄みだけをすくってしまうような事は時々あります。

 また、この私の問いかけに対してのこの様な回答をされてしまう事から、本人も自分の周りの世界を広げていきたいとも思っていない様ですし、その必要性も感じてはいない様でした。

新しい事に躊躇する

 彼女や聴覚障害者の方だけでなく、新しい事にして、変化を嫌うのは人間の性のようです。例えば、写真の技術が日本に入ってきた時、「魂を抜き取られる」と言って怖がって写真に写ろうとしない人が多くいたという話は有名です。また、スマートフォンが販売されだした時、(私もそうでしたが)「スマートフォンなんて不必要。今までのケイタイ(ガラケー)で十分」と思い、新しい物(スマホ)をすぐに手に入れようとは思いませんでした。(しかし、今はスマホを家に忘れて出勤してしまうと、

特に、新しい事に挑戦する事に障壁が多く存在し、今までに頑張る前から挑戦する事を制約されてきた彼女の様な方は、人一倍新しい事を取り入れるのに躊躇してしまうと思います。

の様な事を乗り越えるためには、新しい事に挑戦する強い気持ちの基礎になるような自信を心の中に育むことが必要ではないかと思います。

挑戦する力

 単に、「9歳の壁」等の思考能力や心理的なものだけが聴覚障害者のコミュニケーションや就労の幅を狭めているとは思いませんが、それらが原因一つとなっている事は事実です。聴覚に障害がある事で、向いていなかったり、できない事は多くあると思います。特に、先に述べたようにアラーム音や呼吸音に気が付く事ができない為に、担うべきものではない事も多いと思います。

しかし、それとは反対に、聴覚が不自由なため、他の感覚が研ぎ澄まされて、他の人より向いている事もあるかもしれません。それが何かは分かりませんが、それを見つけるにはそれこそ、「trial and error」が必要です。

もしかすると、彼女(達)は今まで挑戦する前に、色々な制約を突き付けられて、挑戦させてもらえなかった可能性があります。その様な失敗体験のために無力感を増長させてしまい、現在に至っているのかも知れません。

 この他、障害者年金があり、最低限の生活が保障されているので、卒業後に定職に就かない方も珍しくはないと聞いた事があります。(この情報は、他人から聞いただけの話です)この様な状況の中、できない事を突き付けられても、そこでできる事を黙々とこなしている彼女は尊敬にも値すると思います。しかし、その勤勉さのベクトルをもう少し違う方向に向け、新たな事に挑戦して欲しいと陰ながら思っています。

 特に今は、internetやIT技術が広がったおかげで、聴覚障害者だけでなく、他の障害者にとっても、色々な可能性が広がっていると思います。先に述べた通り、新しいものを取り入れたり、環境を変える事は意識的にしないとできない事かもしれません。しかし、便利な技術や多様性に対する意識が広がっている現在は、今まで以上に色々な事に挑戦する機会ができています。坂本 徳仁 「聴覚障害者の進学と就労――現状と課題」 (arsvi.com)では制度の改善に加え、学力の向上を教育法や教員の質を高めたりして、時代に応じた変革を行う事で聴覚者の教育や就労状況を改善していく必要がある事が述べられています。

私もその通りだと思いますが、色々な情報に簡単にアクセスできるこの現代社会の中で、聴覚障害者自身や関係者以外でも、この様な述べてきた状況や課題を認識できる機会が増えています。そのため、私が心配するまでもなく、色々な事が改善され、上記の様な方にも、様々な機会が増え、色々な事が挑戦しやすくなり、もっと躍進していかれる事になっていくと思います。それこそ「Trial and error」が必須です。

「聴覚障害者としか結婚しない」なんて彼女に言わせない社会を創りたいものです。


 

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