歴史を学ぶという事は、過去に生きた人達が何を考え、行動してきたかを考える事だと思います。言うなれば、過去の人達とのとのコミュニケーションともいえると思います。その様な気持ちで、歴史を知り、過去の人達がどういう気持ちで私達の今ある社会の礎を築いてくれたのか、考えたいと思います。
作家の井沢元彦氏は自身の著書「歴史を人生の武器にする」の冒頭で「歴史というのは川の流れの様なものだ。源流から始まり、上流、中流、下流と次第に水量と面積が増えていく。同じように歴史は上流、つまり古い時代に起こった事が、次の時代である中流、下流に必ず何かの影響を与え広がっていく。」と述べられています。
また、池上彰氏は著書の「池上彰の18歳からの教養講座」で、「歴史は決して暗記科目ではない。歴史の前後には常に因果関係があり、いくつものできごとの積み重ねによって形作られている。(中略)歴史を学ぶことによって今起きていることがこの後どのように進むかを推測できる。そういう力を身につける事が大事なのではないかと思っている。」と書かれています。
これらの他に、3度の戦争を主導して、ドイツを統一した、「鉄血宰相(てっけつさいしょう)」といわれたプロセイン首相のビスマルクは「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と言われました。私達の祖先がたどってきた道をしっかり理解するために、歴史を学ぶ事は未来を見て今を生きるために、何らかの指針を示してくれるものと思います。
この様なとらえ方をする上で、日本の歴史を、天皇を起点に捉えると、整理しやすいかもしれないと思い、整理してみました。
時代 | 年代 | 天皇 | 主なでき事や重要人物 | 文化 | 主な文化的事象 |
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古墳時代(部民制〔奴隷制社会〕の発達) | 539-571 | (29)欽明 (きんめい)天皇 | ・538年に百済(くだら)の聖明王(せいめいおう)から欽明天皇に仏像と経典が送られ仏教が伝来する。 | ||
572-585 | (30)敏達 (びだつ)天皇 | ・崇仏論争(すうぶつろんそう:仏教を新たに信仰するか、それまでの固有の宗教を信仰するかの論争)- 蘇我稲目(そがのいなめ:崇仏派)vs 物部尾興(もののべのおこし:廃仏派) | |||
585-587 | (31)用明 (ようめい)天皇 | ・最後まで物部守屋(もののべのもりや)が頑張ったが負けて物部氏滅亡。 | |||
587-592 | (32)崇峻 (すしゅん)天皇 | ・この天皇は蘇我馬子に即位させてもらったものの、最終的には対立して殺される。 | |||
飛鳥時代 | 593-628 | (33)推古 (すいこ)天皇 | ・蘇我馬子(そがのうまこ)の姪で初の女帝。 ・593年に甥である聖徳太子が摂政になる。 ・冠位十二階の制(かんいじゅうにかいのせい:603年)、憲法十七条(604)制定。 ・遣隋使(けんずいし:607年)として小野妹子(おののいもこ)を送る。 | 飛鳥文化(大陸の文化に影響を受けて、古墳に替わって寺院が建立されるようになる) | ・法隆寺玉虫厨子 ・法隆寺 ・中宮寺 ・広隆寺 ・四天王寺 |
629-641 | (34)舒明 (じょめい)天皇 | ・630年に遣唐使(けんとうし:最後の遣隋使でもある)として犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)が送られる。 | |||
642-645 | (35)皇極 (こうぎょく)天皇 | ・舒明天皇の皇后で天智天皇、間人(はしうど)皇女(孝徳天皇の皇后)、天武天皇の母。 ・蘇我蝦夷・入鹿(そがのえみし・いるか)父子が山背大兄王(やましろのおおえのおう:太子の子)を殺害する。 ・飛鳥板蓋官大極殿にて乙巳の変〔いっしのへん:645年に中大兄皇子(なかのおうえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)が蘇我入鹿を殺害〕が起こる。 | |||
645-654 | (36)孝徳 (こうとく)天皇 | ・奥さんは間人皇后。 ・大化の改新の詔(たいかのかいしんのみことのり)ー646年、公地公民制、唐を模範ととする律令国家を目指す。*公地公民制では口分田を与え(班田収授法)租庸調・雑徭を課す。 | 白鳳文化(大化の改新から平城京遷都までの飛鳥時代に花開いた) | ・薬師寺東塔 ・薬師寺東院堂聖観音像 | |
655-661 | (37)斉明 (さいめい)天皇 | ・皇極天皇が重祚(ちょうそ:1度天皇をした人が再び天皇になる事)。 ・天皇の死後、中大兄皇子が称制(天皇に替わって政治を行う事)。(661) ・白村江の戦いで唐・白羅に百済・日本が大敗。(663) | |||
668-671 | (38)天智 (てんち)天皇 | ・間人皇后の死後、近江大津宮に遷都。(667) ・中大兄皇子が天皇に即位(668) ・近江令(最初の令)を制定し、庚午年籍(こうごねんじゃく:最初の戸籍)を作成する。(670) | |||
671-672 | (39)弘文 (こうぶん)天皇 | ・天智天皇の息子である大友皇子。(命名は明治時代の水戸藩編集の史書「大日本史」) ・壬申(じんしん)の乱(672)が起こり、天武天皇と弘文天皇が戦う。 | |||
673-686 | (40)天武 (てんむ)天皇 | ・天智天皇の弟の大海人皇子が即位。 ・飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらぐう)で即位。 ・白村江(はくすきのえ)の戦いで公地公民制が崩れ、部曲(かきべ:私有民の事)が復活しそうだったが、それを廃止して、「公地公民制」を確立した。 ・身分制度である「八色の姓(やくさのかばね)」を制定し、天皇中心の皇親政治を行う。 ⓵真人(まひと:天皇の親族) ⓶朝臣(あそみ:以前の臣姓) ⓷宿禰(すくね:以前の連姓) ・稗田阿礼(ひえだのあれ)に「帝紀」、「旧辞」を覚えさせ、太安万侶(おおのやすまろ)が筆録して、「古事記」を作る。 ・最古のお金「富本銭(ふほんせん)」を作る。(683) | |||
690-697 | (41)持統 (じとう)天皇 | ・天武天皇の皇后(父は天智天皇) ・天武天皇が作った「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」を施行。(689) ・庚寅年籍(こういんねんじゃく)が作られた。(690) ・藤原京が作られた。(694:都城制のはじまり) | |||
697-707 | (42)文武 (もんむ)天皇 | ・持統天皇の孫。 ・大宝律令(たいほうりつりょう:刑部親王と藤原不比等が編纂)の制定。(701)⇒初めて律(刑法)と令(行政法)がそろった。 | |||
707-715 | (43)元明 (げんめい)天皇 | ・天智天皇の娘 ・奈良に都が遷る(710) ・藤原不比等(ふじわらのふひと:中臣鎌足の子)が政権担当になる。 (中臣鎌足が藤原の姓をもらったおかげで、朝臣(あそみ)と同格になった:家来としての関係から親戚関係になった) ・出羽(でわ)の国(秋田の方)と大隅(おおすみ)の国(鹿児島の方)を設置。 | 天平文化(奈良の平城京を中心に花開いた貴族・仏教文化) | ・和同開珎(わどうかいちん:皇朝十二銭の1番目708最初の流通を目的とした貨幣で)が創られる。 ・古事記(こじき)が献上された。(712) ・日本書紀(にほんしょき)が720年に完成 ・不比等が亡くなると長屋王に一周忌に長屋王に興福寺北円堂をた建てさせた。 ・万年通宝(まんねんつうほう:皇朝十二銭の2番目)が760年に発行される。 ・神功開宝(じんぐうかいほう:皇朝十二銭の3番目)が848年に発行される。 | |
奈良時代 | 715-724 | (44)元正 (げんしょう)天皇 | ・租庸調・雑徭に国民が苦しみ土地が荒れていたため、長屋王(ながやおう)が三世一身の法を制定。(723) ・現在の宮城県に多賀城設置。(724) | ||
724-749 | (45)聖武 (しょうむ)天皇 | ・文武天皇の第一子。 ・皇后は不比等の子であり、藤原四子の兄弟の光明氏。 ・母は不比等の娘の宮子。 ・文武天皇が崩じた時、幼少で即位できなく、祖母の元明天皇と伯母の元正天皇が中継。 ・藤原の四子:房前(ふささき)-北家、武智麻呂(むちまろ)-南家、宇合(うまかい)-武家、麻呂-京家が実権を握る。 ・都を恭仁京(くにきょう:相楽郡)⇒難波⇒紫香楽宮(しがらきぐう)と変える。 ・恭仁京の時、741年に国分寺建立の詔(こくぶんじこんりゅうのみことのり)を発布。(総国分寺-東大寺、総国分尼寺-法華寺) ・紫香楽宮の時、743年に大仏建立の詔を発布。(橘諸兄と玄昉、そして吉備真備に政治をさせて、藤原広嗣の乱(740)が起こり情勢が不穏となったために大仏を建てて情勢の安定を図った。 ・743年に墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう:荘園の起源)が発布された。 ・橘諸兄から藤原仲麻呂(次の孝謙天皇や淳仁天皇にも仕える)に政権が移る。 | |||
749-758 | (46)孝謙 (こうけん)天皇 | ・聖武天皇と光明子の娘 ・大仏開眼供養を行う。 ・藤原仲麻呂が恵美押勝(えみのおしかつ)に名前を変える。 ・橘諸兄が引退に追い込まれたので、橘の奈良麻呂の変(757)が起きるも鎮圧される。 | |||
758-764 | (47)淳仁 (じゅんにん)天皇 | ・756年に孝謙天皇病気で譲位。 ・天武天皇の王子・舎人親皇の甥。 ・離宮・保良宮が唐の北京に習って、造営される。 | |||
764-770 | (48)称徳 (しょうとく)天皇 | ・孝謙上皇が淳仁天皇を淡路に流し、重祚 ・上皇の病気を治した道鏡は恵美押勝の乱で恵美押勝を排して独裁に。 ・宇佐八幡宮事件で道鏡失脚。 | |||
770-781 | (49)光仁 (こうにん)天皇 | ・天智天皇の第7皇子 ・道鏡が失脚した後、藤原百川(ふじわらのももかわ)が実権を握り光仁天皇を即位させる。 ・久しぶりの天智天皇系の天皇。 | |||
平安時代 | 781-806 | (50)桓武 (かんむ)天皇 | ・光仁天皇と百済系の高野新笠(たかのにいかさ)の長男 ・早良親王(さわらしんのう)のハンガーストライキ(藤原種継を殺していないと無実を訴えた)を受け、長岡京から794年に京都へ都を移す。 ・724年に大野東美人(おおののあずまびと)によって建てられた多賀城(宮城県)から鎮守府(ちんじゅふ)を802年に胆沢城(いさわじょう:岩手県)に移す。そして、803年には志波城(しわじょう・岩手県)へ移す。(共に坂上田村麻呂による) ・桓武天皇の庇護を受けて、最澄(さいちょう)が比叡山に延暦寺を建てる。 | 弘仁・貞観文化 | ・続日本紀(しょくにほんき):697年から791年までの編年体の正史(794~797にかけて、3回に分けて完成する。撰者は藤原継縄(ふじわらのつぐただ)等。 ・隆平永宝(りゅうへいえいほう:皇朝十二銭の4番目)が848年に発行される。 ・凌雲集(りょううんしゅう:漢詩文集)が小野岑守(みねもり)、藤原清公(ふじわらのきよきみ)、勇山文継(いさやまのふみつぐ)らによって編纂された。 ・富寿神宝(ふじゅしんぽう:皇朝十二銭の5番目)が818年に発行される。 ・緒嗣が日本後記(にほんこうき:桓武天皇~淳和天皇)を編纂 “・良房は冬嗣の子で、神明天皇の事を書いた「続日本後記(しょくにほんこうき)を編纂。 ・承和昌宝(じょうわしょうほう:皇朝十二銭の6番目)が835年に発行される。 ・長年大宝(ちょうねんたいほう:皇朝十二銭の7番目)が848年に発行される。 ・日本文徳天皇実録を藤原基経(ふじわらのもとつね)等が編纂。 ・饒益神宝(じょうえきしんぽう:皇朝十二銭の8番目)が859年に発行される。 ・貞観永宝(じょうがんえいほう:皇朝十二銭の9番目)が870年に発行される。 ・宇多天皇が藤原時平(ふじわらのときひら)と菅原道真等に日本三代実録(清和天皇~光孝天皇)を編纂させた。 *六国史(りっこくし:「日本書紀(にほんしょき)」、「続日本紀」、「日本後記」、「続日本後記」、「日本文徳天皇実録」、「日本三代実録」) ・寛平大宝(かんぴょうたいほう:皇朝十二銭の10番目)が890年に発行される。” |
806-809 | (51)平城 (へいぜい)天皇 | ・薬子の変(天皇の義母が式家出身の藤原薬子で竉愛した)で病気で譲った政権を取り戻そうとしたが、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を用いた弟の嵯峨天皇に鎮圧された。 | |||
809-823 | (52)嵯峨 (さが)天皇 | ・薬子を抑えるために蔵人所(くろうどどころ:秘書の様なもので、機密文書等を司らせた)をつくり、初代の蔵人頭(くろうどのとう)として、北家出身の藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)と巨勢野足(こせののたり)を就任させた。 ・弘仁格式(こうにんきゃくしき:三代格式の最初で律令の補足)が編纂される。 ・検非違使(けびいし)を設置し、京の治安を強化。 | |||
823-833 | (53)淳和 (じゅんな)天皇 | ・桓武天皇の第七皇子 ・政権担当は藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)が右大臣、藤原冬嗣が左大臣。 ・清原夏野が令義解(りょうぎのげ:令の解釈を統一するための物)を編纂。 | |||
833-850 | (54)仁明 (にんみょう)天皇 | ・嵯峨天皇の第二皇子 ・842年に承和の変〔じょうわのへん:藤原良房(ふじわらのよしふさ)が橘逸勢(たちばなのはやなり)と伴健岑(とものこわみね)配流(はいる:島流しにする事)にしてしまう〕が起こる。(藤原氏初の他氏排斥) | |||
850-858 | (55)文徳 (もんとく)天皇 | ・仁明天皇の第一子で母は冬嗣の娘の順子。叔父は良房。 | |||
858-876 | (56)清和 (せいわ)天皇 | ・858年に9歳で即位。 ・良房が外祖父。 ・貞観格式(じょうがんきゃくしき:三代格式の第二弾) ・866年に応天門の変(おうてんもんのへん)で良房が伴善男(とものよしお)を流罪に。 | |||
876-884 | (57)陽成 (ようぜい)天皇 | ・清和天皇の第一子。 ・良房の子である藤原基経が摂政となるも、天皇が変人なため、仲が悪くなる。 | |||
884-887 | (58)光孝 (こうこう)天皇 | ・基経(884年に関白になる)が陽成天皇を辞めさせて光孝天皇にする。 | |||
887-897 | (59)宇多 (うだ)天皇 | ・臣下から天皇になったたった1例。〔源定省(みなもとのさだみ)→定省親王(さだみしんのう)→宇多天皇〕 ・阿衡の紛議で橘広相(たちばなのひろみ)を失脚させなければならなくなり、基経と仲が悪くなった。 ・891年に基経が死ぬと、宇多天皇自ら政治を行う事にする。→寛平の治〔かんぴょうのち:阿衡の紛議で橘広相を弁護した菅原道真(すがわらのみちざね)が補佐した。〕 ・天皇の住む内裏(だいり)を守る警護部隊「滝口の武士」を置く。 ・894年に菅原道真がメリットが少なくなったという事で遣唐使を廃止。 | |||
897-930 | (60)醍醐 (だいご)天皇 | ・延喜の治(えんぎのち):左大臣の藤原時平と右大臣の菅原道真が補佐した。 ・昌泰の変(昌泰の変):901年に菅原道真が太宰権帥(だざいごんのそち)まで降格。 ・延喜格式(えんぎきゃくしき):第三弾。 ・延喜の荘園整理令(902) | 国風文化(遣唐使が廃止され、日本文化の国風化が加速した)・天暦の治(てんりゃくのち:藤原忠平が即位した後、しばらくは関白としていたが、949年に彼が没すると、摂関を置かずに天皇親政の形式をとった。) | ・古今和歌集(こきんわかしゅう):全20巻の勅撰和歌集。編者は紀貫之(きのつらゆき)、紀友則(きのとものり)、牡牛小内躬恒(おうしこうちのみつね)等。 ・延喜通宝(えんぎつうほう:皇朝十二銭の11番目)が907年に発行される。 ・村上天皇は和歌が好きで、和歌所を設置し、「梨壺の五人(なしつぼのごにん)」を置き、後撰和歌集を編纂させたり、天徳歌合〔てんとくうたあわせ:現代の紅白歌合戦の様なもの(?)〕 ・梨壺の五人ー 大中臣義能宣(おおなかとみのよしのぶ)、源順(みなもとのしたごう)、清原元輔(きよはらのもとすけ)、坂上望城(さかのうえのもちき)、紀時文(きのときぶみ) ・乾元大宝(けんげんたいほう:皇朝十二銭のラスト)が958年に発行される。 ・1053年に藤原頼通により平等院鳳凰堂が建立される。 | |
930-946 | (61)朱雀 (すじゃく)天皇 | ・醍醐天皇の第十一皇子。 ・藤原基経の娘の藤原隠子(ふじわらのおんし)が母。 ・藤原忠平(ふじわらのただひら)が摂政(天皇の幼少期)・関白(天皇の青年期)になる。(摂関政治) ・939年に承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん)が起きる。⇒承平の乱:関東で平将門が、いとこの平貞盛(たいらのさだもり)と藤原秀郷に鎮圧される。⇒天慶の乱:瀬戸内海で藤原純友が小野好古(おののよしふる)と源経基(みなもとのつねもと)に鎮圧される。*武士が力をつけてきた証。 | |||
946-967 | (62)村上 (むらかみ)天皇 | ・天暦の治(てんりゃくのち:藤原忠平が即位した後、しばらくは関白としていたが、949年に彼が没すると、摂関を置かずに天皇親政の形式をとった。) | |||
967-969 | (63)冷泉 (れいぜい)天皇 | ・村上天皇の第2子 ・摂関は藤原実頼(ふじわらのさねより) ・安和の変(あんなのへん:969年に起きた最後の他氏排斥事件(源光仲の密告で左大臣源高明を排斥)が起きる。 | |||
969-984 | (64)円融 (えんゆう)天皇 | ・村上天皇の第5子 ・摂政は藤原実頼 | |||
984-986 | (65)花山 (かざん)天皇 | ・冷泉天皇の第1子 ・三条天皇の異母兄 | |||
986-1011 | (66)一条 (いちじょう)天皇 | ・円融天皇の第一子 ・兄弟姉妹はおらず、従兄弟に前帝・花山天皇と次帝・三条天皇がいる。 | |||
1011-1016 | (67)三条 (さんじょう)天皇 | ・冷泉天皇の第二子 ・花山天皇の異母兄弟 | |||
1016-1036 | (68)後一条 (ごいちじょう)天皇 | ・一条天皇の第二皇子 ・母は藤原道長(ふじわらのみちなが)の娘・彰子(あきこ) ・8歳で即位(藤原道長の摂関政治) ・刀伊の入冠(といのにゅうかん:1019年に九州地方への外敵侵入事件)で藤原隆家(ふじわらのたかいえ)が迎え討つ。 ・藤原道長が法成寺建立(1022) ・1028年の平忠常の乱(たいらのただつねのらん)を源頼信(みなもとのよりのぶ)が平定。結果、清和源氏の名声が高まる。 | |||
1036-1045 | (69)後朱雀 (ごすじゃく)天皇 | ・一条天皇の第三皇子 ・母は藤原道長(ふじわらのみちなが)の娘・彰子(あきこ) ・藤原頼通(ふじわらのよりみち)の摂関政治 | |||
1045-1068 | (70)後冷泉 (ごれいぜい)天皇 | ・後朱雀天皇の第一皇子 ・母は藤原道長の娘・嬉子 ・皇后は藤原頼道の娘・寛子 ・藤原頼通が摂関政治を行う。 ・前九年の役で源頼義と源義家が安部氏を抑える。 ・1053年、平等院鳳凰堂完成(開基は藤原頼道) | |||
1068-1073 | (71)後三条 (ごさんじょう)天皇 | ・1069年に延久の荘園整理令(えんきゅうのそうえんせいりれい:それまで、藤原氏の権力が絶大だったが、藤原氏と外戚関係にない天皇になったので、藤原氏の土地などを没収していった)が出される。 ・摂関政治の崩壊 ・補佐は侍講(じこう:家庭教師)で寄人(よりうど:平安時代以降の公職)の大江匡房(おおえまさふさ)。 | |||
1073-1086 | (72)白河 (しらかわ)天皇 | ・後三条天皇の第一皇子 ・1086年に院政を開始。 (院政とは天皇を引退した上皇や法王が天皇に替わって政治を行う事) ・後三年の役(1083-1087)で藤原清衡(ふじえあらのきよひら)を助け源義家(みなもとのよしいえ)が清原氏の内紛を鎮圧し、平泉に奥州藤原氏が栄える。 ・院のガードマンとして「北面の武士」がおかれる。 | |||
1087-1107 | (73)堀川 (ほりかわ)天皇 | ・白河天皇の第三皇子 | 院政期文化(貴族勢力の衰退と武士勢力の伸張という過渡期に位置しており、庶民や武士の世俗化した文化 | ・1124年に藤原清衡によって中尊寺金色堂が建立される。(藤原清衡・基衡・秀衡3代のミイラが安置されている) ・日栄(にっそう)貿易で平氏は収益を上げ、経済力を付ける。 ・壇ノ浦で三種の神器(八咫鏡・やたのかがみ、草薙剣・くさなぎのつるぎ、勾玉。まがたま)が沈み、草薙剣だけが見つからなかった。 | |
1107-1123 | (74)鳥羽 (とば)天皇 | ・堀川天皇の皇子で堀川天皇の死後、5歳で即位。 (実際の政務は白河法皇が行った) | |||
1123-1142 | (75)崇徳 (すとく)天皇 | ・鳥羽天皇の第一子。 ・保元(ほげん)の乱で弟の後白河天皇との戦いに敗れる。 ⇒讃岐に流される(1156) | |||
1142-1155 | (76)近衛 (このえ)天皇 | ・鳥羽天皇の第九皇子 ・わずか3歳で即位。 ・鳥羽院政下に置かれる。 | |||
1155-1158 | (77)後白河 (ごしらかわ)天皇 | ・鳥羽天皇の第四皇子 | |||
1158-1165 | (78)二条 (にじょう)天皇 | ・後白河天皇の第一皇子 ・平治の乱(1159)で父の後白河上皇と対立 | |||
1165-1168 | (79)六条 (ろくじょう)天皇 | ・二条天皇の第二皇子 ・1167年に平清盛が武士初の大政(だいじょう)大臣となる。 ・即位した時、乳飲み子だったため、後白河上皇が表舞台に。 | |||
1168-1180 | (80)高倉 (たかくら)天皇 | ・後白河天皇の第七皇子 ・安徳天皇と後鳥羽天皇の父 ・鹿ヶ谷(ししがだに)の陰謀(1177年に藤原成親や西行、僧侶の俊寛らが平氏打倒の陰謀を企てたが、失敗) | |||
1180-1185 | (81)安徳 (あんとく)天皇 | ・平清盛が3歳の孫を安徳天皇とする。 ・高倉天皇と平徳子(建礼門院)の子 ・1180年に源頼政(みなもとのよりまさ)が後白河法皇の第三子・以仁王(もちひとおう)の令旨を受けて、挙兵する。 ・1180年に富士川(静岡)の戦いで源頼朝(みなもとのよりとも)に負け⇒1184年に一の谷(兵庫)の戦いでも源義経(みなもとのよしつね)と源範頼(みなもとののりより)に負け⇒屋島(香川)の戦いで負けた後、1185年壇ノ浦(山口)の戦いで平氏が滅ぼされる。(この源平の合戦の事を「治承・寿永(じしょう・じゅえい)の乱」という。) ・壇ノ浦の戦いでおばあちゃんの二位尼(にいのあま)に安徳天皇(8歳)が抱かれて、入水し、亡くなる。・平徳子は助けられ生き残ることに。・徳子は「建礼門院(けんれいもんいん)」として、京都の大原にある寂光院で尼になり余生を過ごす。 | |||
鎌倉時代 | 1183-1198 | (82)後鳥羽(ごとば)天皇 | ・高倉天皇の第四皇子(安徳天皇とは異母兄弟) ・源頼朝(みなもとのよりとも)が守護(各国に1人設置)と地頭(各荘園に1人設置)を設置(1185) ・頼朝が九条兼実(くじょうかねざね)ら10人を議奏公卿(ぎそうくぎょう)とし、政務に当たらせた。 ・奥州征伐(おうしゅうせいばつ)で頼朝が藤原泰衡(やすひら)を討つ。(1189) ・源頼朝が1192年に征夷大将軍になる。 | 鎌倉文化(王朝国家からの自立を指向し、本格的な武家政権が東国で開かれた時代で、各方面で新たな文化的所産が生まれた) | ・後鳥羽天皇が世俗浅深秘抄(せぞくせんしんひしょう)という有職故実(ゆうそくこじつ:古来の先例に基づいた、朝廷や公家、武家の行事や法令・制度・風俗・習慣・儀式・装束等の事)を著述する。 ・順徳天皇が禁秘抄(有職故実の解説書)を著。 ・後鳥羽上皇が新古今和歌集(藤原定家撰)の編纂を命じる。 ・慈円によって書かれた「愚管抄(1220年成立)」は承久の乱を否定した。(「愚管抄」は北畠親房(たばたけちかふさ)の「親王正統記(じんのうしょうとうき)と並び中世日本のもっとも重要な歴史書と評される。 ・1252年、十訓抄(「十訓」こと十ヶ条の教訓を掲げ、古今和歌の教訓的な説話を説く)が成立する。 ・1253年、蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が鎌倉に建長寺(けんちょうじ)を開山。 |
1198-1210 | (83)土衛門 (つちみかど)天皇 | ・鳥羽天皇の第一皇子 ・二代将軍源頼家(みなもとのよりいえ)の独裁を防ぐために、十三人の合議制がしかれる。(1199) ・北条時政(ほうじょうときまさ)が頼家を殺害(1204) ・頼家の弟の源実朝(みなもとのさねとも)が三代将軍に。 ・北条義時(よしとき)が父の時政を失脚させて執権に。(1205) ・1213年和田義盛(わだよしもり)の乱で義時が鎮圧。 ・実朝が甥の公暁に暗殺される。(1219) | |||
1210-1221 | (84)順徳 (じゅんとく)天皇 | ・後鳥羽天皇の第三皇子 ・1213年和田義盛(わだよしもり)の乱で義時が鎮圧。 ・実朝が甥の公暁(くぎょう:頼家の息子)に暗殺される。(1219) | |||
1221 | (85)仲恭 (ちゅうきょう)天皇 | ・父の順徳天皇が祖父の後鳥羽上皇と承久の乱を起こすため4歳で践祚(天皇の位を継承する事)。5月13日から7月29日の間のみ。 ・後鳥羽上皇は西面の武士を設置して、上皇の身辺警護に当たらせた。 ⇒上皇は隠岐に、順徳天皇は佐渡に、そして土御門上皇は土佐に流された。 | |||
1221-1232 | (86)後堀河 (ごほりかわ)天皇 | ・北条義時は京都守護の代わりに六波羅探題を設置した。 ・三代執権北条泰時(やすとき)は1232年に御成敗式目(ごせいばいしきもく:貞永式目ともいう)を制定した。 | |||
1232-1242 | (87)四条 (しじょう)天皇 | ・後堀河天皇の第一皇子 ・2歳で践祚して、12歳で崩御(皇族の死去を意味する、最高敬語)した。 | |||
1242-1246 | (88)後嵯峨 (ごさが)天皇 | ・土御門天皇の皇子 ・三代執権泰時の次の四代は孫の北条経時(ほうじょうつねとき:1242-1246) | |||
1246-1260 | (89)後深草 (ごふかくさ)天皇 | ・後嵯峨天皇の皇子 ・4歳で践祚(せんそ) ・後嵯峨上皇の院政(院評定衆を設置) ・経時の次の五代執権は経時の弟の北条時頼(ほうじょうときより) ・時頼が「得宗専制体制(とくそうせんせいたいせい:得宗として執権にあたる)」で実権を握ったままにする。 ・時頼は宝治合戦で三浦安村の一族を滅ぼす。(1147) ・後嵯峨天皇の息子の宗尊親王を皇族将軍に迎え入れる。(1252) ・時頼が評定衆(ひょうじょうしゅう)の下に引付衆(ひきつけしゅう)をつくり、裁判の迅速化を図る。 ・次の亀山天皇に譲位する代わりに長講堂領を手にする。 *長講堂領=後白河法皇が院御所六条殿に営んだ持仏堂長講堂の所領(後の北朝の持明院統の元) | |||
1260-1274 | (90)亀山 (かめやま)天皇 | ・後嵯峨天皇の皇子、後深草天皇の弟 ・八条女院領を与えられる *「八条女院領」は鳥羽法皇に八条院(障子内親王:しょうしないしんのう)が伝領した皇室領⇒大覚寺統の元(後の南朝) ・六代執権は北条長時(ほうじょうながとき:時頼の義兄)になったが、時頼の得宗専制体制下。 ・七代執権は北条政村(1264-1268)。 ・1274年に文永の役(元・蒙古の来襲を八代執権・時宗を中心とした幕府がが拒んだ) | |||
1274-1287 | (91)後宇多 (ごうだ)天皇 | ・大覚寺統の天皇。 ・父は亀山天皇。 ・1247年の宝治合戦後は、安達氏が最大の御家人だったが、1285年に滅ぼされた。 ・八代執権は北条時宗(ほうじょうときむね:1268-1284) ・1281年に弘安の役で蒙古再来襲。 ・無学祖元(むがくそげん)が1282年に円覚寺開山。 ・九代執権は北条貞時(ほうじょうさだとき)。 ・1285年に霜月騒動(しもつきそうどう)が起こる。 ⇒御家人(ごけにん)である安達泰盛(あだちやすもり)が御内人(みうちびと)である平頼綱(たいらのよりつな)に負ける。その後平禅門の乱の乱で1293年に北条貞時が平頼綱(たいらのよりつな)を討つ。 | |||
1287-1298 | (92)伏見 (ふしみ)天皇 | ・後深草天皇の第二皇子。 ・1297年、元寇(蒙古来襲の事)の時恩賞が出なかったので、「永仁の徳政令」を出して、御家人の借金を帳消しに。 | |||
1298-1301 | (93)後伏見 (ごふしみ)天皇 | ・伏見天皇の第一皇子 | |||
1301-1308 | (94)後二条 (ごにじょう)天皇 | ・大覚寺統(後宇多天皇の第一皇子) | |||
1308-1318 | (95)花園 (はなぞの)天皇 | ・伏見天皇の第四皇子 | |||
1318-1339 | (96)後醍醐 (ごだいご)天皇 | ・宇多天皇の第二皇子。 ・14代執権に北条高時(ほうじょうたかとき:1316-1326) ・1324年後醍醐天皇は倒幕を試みいるが、失敗する。(正中の変:しょうちゅうのへん) ・1325年建長寺を建て直す資金を得るために、元に貿易船(建長寺船)を出す。 ・1331年、元弘の変(げんこうのへん)で再び倒幕に失敗し、隠岐に流される。 ・足利尊氏(あしかがたかうじ)が六波羅探題(ろくはらたんだい)を滅ぼす。 ・新田義貞(にったよしさだ)が北条氏を滅ぼす。 ・楠木正成が後醍醐天皇を今日に戻す。 ・1333年に鎌倉幕府が滅亡する。 ・醍醐天皇が行った延喜の治を理想とする「建武(けんむ)の新政(しんせい)」が行われる。(1334年) ・1335年、中先代の乱で北条時行(ときゆき:高時の息子)が足利尊氏に殺される。その後、箱根の竹の下の戦いで後醍醐天皇の部下である新田義貞を破り、入京。そこで奥州の北畠顕家(きたばたけあきいえ)に破られ尊氏は一旦、九州に敗走。 ・九州で態勢を整えた尊氏は1336年の湊川の戦で湊川(神戸)の戦で新田義貞と楠木正成(くすのきまさしげ)を破って、京都を制圧。 ・尊氏は持明院統の光明(こうみょう)天皇を即位させ、建武式目を発表する。そして、尊氏が将軍に就任して、室町幕府を設立。(1338年) ・後醍醐天皇は吉野に入り、南朝(吉野)と北朝(京都)ができ南北朝動乱が起きる。 ・1338年、石津(堺)の戦いで北畠顕家が高師直(こうのもろなお)に敗れ、藤島の戦いでは新田義貞も破れ、1339年後醍醐天皇は死去。 | |||
室町時代 | 1339-1368 | (97)後村上 (ごむらかみ)天皇 | ・後醍醐天皇の第七皇子。 ・1911年南朝が正統とされたため、歴代天皇として認定された 。〔北畠親房(きたばたけちかふさ)も「神皇正統記(じんのうしょうとうき)」で南朝正統論を説いている。また、増鏡(ますかがみ)も南朝より〕 ・観応の擾乱で尊氏の執事・高師直が尊氏の弟・足利直義(ただよし)に殺される。そして、尊氏が直義を毒殺(1350~1352年) ・1358年に尊氏が死去すると、二代将軍に足利義詮(よしあきら)がなる。 | 南北朝文化 | 南北朝の五大史書 ・神皇正統記(じんのうしょうとうき) ・増鏡(ますかがみ) ・太平記 ・梅松論 ・難太平記 |
1368-1383 | (98)長慶 (ちょうけい)天皇 | ・後村上天皇の子 ・足利義満が将軍に(1368-1395) ・1378年に後醍醐の子・兼良親王(かねよししんのう)を今川貞世(いまがわさだよ:歌人としても有名で、「難太平記」等の著がある)が討つ。 ・幕府の機構が整えられ、「侍所(さむらいどころ)」、「政所(まんどころ)」、「問注所(もんちゅうじょ)」等を統括する管領(かんれい)が置かれ、細川・斯波(しば)・畠山(はたけやま)の三氏が交代で任命され、この三氏を三管領と呼ばれた。また、警察の様な役目を果たす、侍所の所司(しょじ:長官)は赤松・一色・山名・京極の四氏(四識:ししき)の中から任命された。 | 北山文化(三代将軍足利義満の北山山荘に代表される、14世紀末から15世紀前半までの文化。 | ・鹿苑寺内にある楼閣、金閣が義満によって、建てられる。 ・観阿弥・世阿弥(1394)(かんあみ・ぜあみ)親子により能が完成。(世阿弥の芸能論である「風姿花伝」は有名。) ・臨済宗の僧侶・無窓疎石(むそうそせき)の卓越した造園技術により創られた西芳寺(苔寺)や天龍寺は有名。 南北朝五大史書 ・「神皇正統記(じんのうしょうとうき)」 ・「増鏡(ますかがみ)」 ・「太平記(南朝寄り)」 ・「梅松論(北朝寄り)」 ・「難太平記(北朝・今川了俊)」 (「ジンマシン大変、梅アレルギーなんだ」)と覚えると良い感じ。 | |
1383-1392 | (99)後亀山 (ごかめやま)天皇 | ・後村上天皇の子、長慶天皇の弟 ・南朝の第四代天皇 ・義満が美濃の守護・土岐康行を討ち、翌年、明徳の乱で山名氏清(やまなうじきよ)を討つ。(山名氏清は岡山から鳥取の広い範囲を支配したため「六分の一殿」と言われた) ・義満は南北朝調合一させる(1392) | |||
1392-1412 | (100)後小松 (ごこまつ)天皇 | ・後亀山天皇から三種の神器を譲り受ける。 ・北朝の第6代天皇 ・北朝第5代天皇の後円融(ごえんゆう)天皇の子 ・義満が清盛以来の太政大臣へ就任(1394) ・金閣寺金閣建立。(1397) ・1399年に応永の乱で義満が朝鮮半島や中国と貿易していた大内義弘(おおうちよしひろ)を討つ。 ・1404年に日明(にちみん)貿易〔海賊の「倭寇(わこう)」と区別するため、勘合を用いたため、勘合貿易ともいわれる〕を始める。(貿易をはじめたのは第4代将軍・義持。1411年に貿易中断) | |||
1412-1428 | (101)称光 (しょうこう)天皇 | ・後小松天皇の子 ・1419年応永の外交〔李(り)氏朝鮮が対馬に攻め入る〕 ・5代将軍は4代将軍義持(よしもち)の子・義量(よしかず)だったが、病死したため、義持が代わりに行う。 ・1428年の代替わり一揆の「正長の土一揆(しょうちょうのつちいっき)」 (この時に父の義持から第6代将軍の義教に代替わり) ・1429年中山王(ちゅうざんおう)の尚巴志(しょうはし)が琉球を統一。 | |||
1428-1464 | (102)後花園 (ごはなぞの)天皇 | ・伏見宮貞成親王(ふしみのみやさだなりしんのう)が父親 ・将軍は6代足利義教(あしかがよしのり) ・1432年、義教は勘合貿易を再開。〔宣徳条約(せんとくじょうやく:永享条約とも)を明と(みん)と結ぶ〕 ・1438年、足利学校を創った上杉憲実(うえすぎのりざね)が6代将軍になりたがっていた、足利持氏(あしかがもちうじ)を討つ(永享の乱:えいきょうのらん) ・1441年に赤松満祐(あかまつみつすけ)が義教を殺す。(嘉吉の乱:かきつのらん) ・将軍が7代の足利義勝(あしかがよしかつ:義教の子)になった時、「嘉吉の土一揆」が起こり、農民に徳政令を出させる結果となった。(1297年の永仁の徳政令は鎌倉時代の御家人に出された徳政令) ・1443年日本と朝鮮の貿易の条約が結ばれる。(嘉吉条約) ・同年、義勝が10歳で死去したため、弟の義政が8代将軍になる。 ・中世最大級の寛政の大飢饉が起きる。(1461年) | 東山文化(8代将軍義政が築いた東山山荘を中心とする、公家・武家・禅僧らの文化) | ・義政は京都の東山の慈照寺内に2層の楼閣、銀閣を建てる。(同寺院内にある東求堂同仁斎(とうぐどうどうじんさい)はこの時期の代表的な建築様式の書院造。 ・大徳寺大仙院庭園:多数の石組みと白砂で構成された庭園で枯山水の庭園 ・四季山水図巻(しきさんすいずかん):水墨画で雪舟(せっしゅう)の代表作。 | |
1464-1500 | (103)後土御門 (ごつちみかど)天皇 | ・後花園天皇の子 ・1467年に応仁の乱が起きる。 応仁の乱構図 西軍(勝) 足利義尚(よしひさ) (義政の子) 斯波義康(しばよしやす) 畠山義就 (はたけやまよしひろ) 山名持豊(やまうちもちとよ) VS 東軍(負) 足利義視(よしみ) (義政の弟) 斯波義敏 (しばよしとし) 畠山政長(はたけやままさなが) 細川勝元(ほそかわかつもと) 結果、将軍は義尚(よしひさ)になるも、実権は母の日野富子が握ることに。 ・1485年山城の国一揆で畠.政長と義就が追い出される。 ・1488年加賀の一向一揆で富樫正親が殺される。(一揆は1580年まで断続的に続く) ・1793年、次の将軍は10代の義稙(よしたね)がなるが、細川政元(ほそかわまさもと)に京を追い出され、「流れ公方(ながれくぼう)」と呼ばれてしまうようになる。 ・次の11代将軍は義澄(よしずみ)で1500年に「撰銭令(えりぜにれい:特に粗悪な銭の流通を禁止した)を出す。 | |||
1500-1526 | (104)後柏原 (ごかしわばら)天皇 | ・1510年、朝鮮で三浦(さんぽ)の乱(日本人の暴動事件) ・12代将軍に義澄の次男の義晴(よしはる)がなる。(1521) ・1523年、寧波(ニンポー)の乱が起きる。(博多商人を支援する大内氏と酒井商人のバックに付く細川氏が対立して明の海港で起こった抗争事件) | |||
1526-1557 | (105)後奈良 (ごなら)天皇 | ・1232年、法華一揆(ほっけいっき)が起きる。 ・1543年、種子島に鉄砲伝来。(南蛮貿易開始) 1547年、13代将軍に義輝(よしてる)がなる。 1549年、ザビエルが鹿児島に上陸。 1556年、ガスパルヴィレラ来日。 | |||
安土桃山時代 | 1557-1586 | (106)正親町 (おおぎまち)天皇 | ・1560年、織田信長はデビュー戦の桶狭間の戦いで今川義元(いまがわよしもと)を破った。 ・1563年、「日本史」の著者であるルイスフロイス来日。 ・1565年、義輝が松永久秀に殺害され、義栄(よしひで)が14代将軍に。 ・1568年、足利義昭(あしかがよしあき:15代将軍)を奉じて(担ぎあげて)、信長が上洛。 ・1570年、姉川の戦いで信長は越前の朝倉義景(あさくらよしかげ)と近江の浅井長政(あさいながまさ)を破る。 ・1571年、延暦寺焼き討ち。 ・1573年、義昭が今日から逃げたため、室町幕府が滅亡した。 ・1574年、伊勢長島一向一揆平定。 ・1575年5月、長篠(ながしの)の戦いで武田信玄の子、勝頼を倒す。 ・1575年9月、越前一向一揆平定。 ・1576年、信長が安土城を築く。 ・1579年、活字印刷機を日本に伝え、「キリシタン版」を発刊したヴァリニャーニ来日。 ・石山本願寺の顕如と和睦(わぼく)。 ・1582年6月、明智光秀(あけちみつひで)が起こした、本能寺の変で信長が自害。その後すぐに、秀吉は信長の三男・信孝を総大将として光秀に挑み、山崎の戦いで、光秀を破った。 1583年、秀吉は賤ケ岳(しずがたけ)の戦いで、柴田勝家を倒す。 ・1584年、小牧長久手の戦いで、徳川家康と和睦(わぼく)。 ・1585年、長曾我部長親(ちょうそかべながちか)を倒して、四国を平定。 ・1586年豊臣の姓をもらい、秀吉は太政大臣になる。 | 桃山文化(織田信長と豊臣秀吉によって天下統一事業が進められていた時代の日本文化で、新興大名や豪商の出現によって支えられ、盛んな海外交渉を背景とした豪華な文化) | ・城郭は安土城(織田信長)、大坂城・伏見城(豊臣秀吉)、姫路城(池田長政)が代表的。 ・絵画は水墨画とやまと絵を融合させた狩野永徳の「洛中洛外図屏風」や唐獅子図屏風(からじしずびょうぶ)」、また長谷川等伯 |
江戸時代 | 1586-1611 | (107)後陽成(ごようぜいてんのう)天皇 | ・正親町天皇の孫 ・1587年、島津義久をおさえて九州を平定〔黒田宮兵衛(別名:黒田如水、黒田孝高)が活躍)⇒バテレン追放令 ・1588年刀狩令 ・1590年豊臣秀吉が全国を統一 ・1592年文禄の役 ・1597年慶長の役 ・1598年秀吉死去 ・1600年関ヶ原の戦い(石田三成が敗れる) 〇東軍:徳川家康、福島正則、黒田長政、細川忠興 ✕西軍:石田三成、小西長政、宇喜多秀家、大谷吉継、 毛利輝元(敗因は小早川秀秋の裏切り) ・1603年徳川家康が征夷大将軍となる。 | ||
1611-1629 | (108)後水尾天皇(ごみずのお)天皇 | ・1614年から15年にかけての大阪冬の陣・夏の陣で秀吉の息子の秀頼を倒す。 ・2代目は秀忠(1605-1623) ・1614年から15年にかけての大阪冬の陣・夏の陣で秀吉の息子の秀頼を倒す。 ・2代目は秀忠(1605-1623) ・1615年、武家諸法度(元和令ともいい、諸大名を統制する基本法)と禁中並公家諸法度(朝廷等を統制する基本法)が出される。 ・3代目は家光(1625-1651)・紫衣事件(紫色の法衣や袈裟を着る事を天皇が僧侶に許した事を幕府が法度違反とみなした事件)で沢庵和尚は流され御水尾天皇は退位。(1629) | 寛永文化〔京都を中心とする文化で、封建制度を強化する江戸幕府に対抗する形で古典芸能・文化の興隆(こうりゅう)を生み出し、江戸においても儒学を中心とした文化が形成される〕 | ・「風神雷神図屏風」:琳派(りんぱ)の祖である俵屋宗達(たわらやそうたつ)によって描かれる。 ・「船橋蒔絵硯箱(ふなばしまきえすずりばこ)」は本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)作。 ・儒教の朱子学が盛んになる。〔林羅山(はやしらざん)以降、林家(りんけ)が代々徳川家の儒者に〕 | |
1629-1643 | (109)明正 (めいしょう)天皇 | ・後水尾天皇の第二皇女で母は秀忠の娘で4代将軍・家綱の母方の従姉。(徳川将軍家を外戚とした唯一の天皇) ・1633年鎖国令(外国の出入国禁止法) ・1635年武家諸法度が改正され「参勤交代」が盛り込まれる。(寛永令) ・1643年田畑永代売買禁止令が出される。 | |||
1643-1654 | (110)後光明 (ごこうみょう)天皇 | ・後水尾天皇の第四皇子 ・1649年慶安御触書(けいあんのおふれがき):「百姓をば死なぬ様生きぬ様」という家康の言葉を実践した法制。 ・4代目の将軍は家綱(1651-1680)で会津藩の「日新館を創った保科正之(ほしなまさゆき)が補佐した。 ・1651年に由井正雪の乱(ゆいしょうせつのらん:慶安の変ともいう)が起きる。 | |||
1655-1663 | (111)後西 (こうさい)天皇 | ・後水尾天皇天皇の第八皇子。 ・1657年明暦の大火(めいれきのたいか)が起きる。 ⇒この火事をきっかけに河村瑞賢(ずいけん)が財を成す。その後、東廻り航路と西廻り航路を整備する。 ・1663年、武家諸法度改補(寛文令)でキリスト教の信仰と殉死が禁止された。 | 元禄文化(主に京都・大阪などの上方の町人を中心として発展した文化) | ・絵画では琳派(りんぱ)の祖・尾形光琳(おがたこうりん)の「燕子花図屏風(かきつばたずびょうぶ)や「紅白梅図屏風」、そして菱川師宣の「見返り美人」が有名。 ・17世紀に出雲阿国(いづものおくに)がはじめた「かぶき踊り」が伎芸としての歌舞伎が盛んに。(江戸では市川團十郎が、そして上方では坂田藤十郎が有名に) ・松尾芭蕉が奥州・北陸を旅した時の俳諧紀行文「奥の細道」を出す。 ・1690年に湯島聖堂(ゆしませいどう)ができる。 1663-1687 (112)霊元(れいげん)天皇 ・1669年に東蝦夷治(北海道新ひだか町)でシャクシャインの乱が起きる。 ・5代目は綱吉(1680-1709)で家光の四男。 ・柳沢吉保が側用人(そばようにん)となり、荻生徂徠(おぎゅうそらい)が相談役となる。 ・1682年に生類憐みの令(しょうるいあわれみのれい)が出される。 | |
1663-1687 | (112)霊元 (れいげん)天皇 | ・1669年に東蝦夷治(北海道新ひだか町)でシャクシャインの乱が起きる。 ・5代目は綱吉(1680-1709)で家光の四男。 ・柳沢吉保が側用人(そばようにん)となり、荻生徂徠(おぎゅうそらい)が相談役となる。 ・1682年に生類憐みの令(しょうるいあわれみのれい)が出される。 | |||
1687-1709 | (113)東山 (ひがしやま)天皇 | ・1709年に第6代将軍に家宣(いえのぶ)が就任。(甲府藩主・徳川綱重の長男で3代将軍家光の孫) | |||
1709-1735 | (114)中御門 (なかごもん)天皇 | ・東山天皇の第五皇子で9歳で即位。 ・侍講(君主に学問を講じる者)の新井白石と側用人(そばようにん)の間部詮房(まなべあきふさ)により「正徳の治(しょうとくのち)」が行われる。 *正徳の治:6代将軍家宣と7代将軍家継(いえつぐ)2代の時の善政で、元禄金銀貨を良貨の正徳金銀貨にしたり、1715年に海舶互市新令(かいはくごししんれい)を制定し、海外との貿易を統制したりした。 ・1710年に閑院宮家(かんいんのみやけ)が創設される。 ・1713年、第7代将軍に家継が5歳で就任。(わずか8歳で没する) ・1716年、8代将軍に吉宗(よしむね)が就任し、大岡忠相と相談役で主著に「政談」がある荻生徂徠とともに享保(きょうほ)の改革を行う。 *享保の改革:相対済令(あいたいすましれい)、上げ米制、目安箱、株仲間の公認、公事方御定書(くじかたおさだめがき)、定免法(じょうめんほう) ・1732年、享保の大飢饉が起こる。 *50年後の1782年に天明の大飢饉、その翌年に浅間山が噴火。そして、その50年後の1833年に天保の大飢饉が起こる。(ほぼ50年間隔) | |||
1735-1747 | (115)桜町 (さくらまち)天皇 | ・中御門天皇の第一皇子 ・9代目将軍は吉宗の長男・家重(いえしげ)で言語障害がある。 ・将軍の側用人は大岡忠光(ただみつ)で忠相の親戚。 | |||
1747-1762 | (116)桃園 (ももぞの)天皇 | ・1758年、宝暦事件(竹内式部が尊王思想で京を追放される)が起きる。 ・1760年に10代目は家治(いえはる)となる。 ・老中の田沼意次(たぬまおきつぐ)が重商主義の政策をとる。(株仲間を公認) | |||
1762-1771 | (117)後桜町 (ごさくらまち)天皇 | ・桜町天皇の第二皇女(桃園天皇の異母姉弟) ・1767年に明和事件で山形大弐死刑、竹内式部流刑。 | 化政文化(政治・社会を風刺する川柳が流行し、庶民生活を面白おかしく描いた作り話も好まれた) | ・庶民生活を活き活きと描いた滑稽本と言われる「東海道中膝栗毛」が十返舎一九(じっぺんしゃいっく)によって書かれる。 ・その他の文学作品として、「雨月物語(上田秋成)」や「南総里見八犬伝(曲亭馬琴)」がある。 ・浮世絵は黄金時代と言われ、「富嶽三十六景(葛飾北斎)」、「東海道五十三次(歌川広重)」、「ポッピンを吹く女(喜多川歌麿)」などが有名。 ・俳諧では、与謝蕪村(よさぶそん)の「蕪村七部集」や小林一茶(こばやしいっさ)の「おらが春」が有名。 ・前野良沢(まえのりょうたく)と杉田玄白(すぎたげんぱく)が1774年に日本初の翻訳西洋医学書の「解体新」が刊行。この他、本居宣長の「古事記伝」や新井白石の「西洋紀聞」が有名。 | |
1771-1779 | (118)後桃園 (ごももぞの)天皇 | ・桃園天皇の第一皇子 ・病気がちで22歳で崩御。 | |||
1780-1817 | (119)光格 (こうかく)天皇 | ・後桃園天皇には皇女しかおらず、閑院宮から新帝を迎えた。 ・1787年に11代将軍が一橋家出身の家斉(いえなり)になる。 ・田安家出身の松平定信が寛政の改革を行う。(1787-1793の間に行われたもので、「囲い米の制(飢饉対策)」と「棄捐令(きえんれい:借金帳消し)」、そして長谷川平蔵が建議して犯罪者の防止のための「人足寄場」等が主な政策。この他、「海国兵談」を書いた、林羅山を弾圧。また、洒落本の山東京伝や黄表紙本の恋川春町を処分。) ・1792年、ラックスマンが大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)と根室へ来る。 ・1804年、レザノフが長崎へ来るも、拒否される。 ・1791年尊号一件(そんごういっけん)が起こる。 ・1793年頃から松平定信の厳しさに疲れ、家斉の大御所政治が行われた。 ・1808年、フェートン号事件(イギリスの軍艦がオランダ商館を攻撃する)が起きる。 | |||
1817-1846 | (120)仁孝 (にんこう)天皇 | ・光格天皇の第四皇子 ・1825年、無二念打払令(外国船に好き勝手させないように出された政策) ・1828年、シーボルト事件(当時、国禁だった日本地図等を持ち出そうとして、発覚した事件) ・天保の大飢饉(1833-1836)が起きる。 ・1837年、大塩平八郎(おおしおへいはちろう)の乱と生田万(いくたよろず)の乱が起きる。 ・1837年、モリソン号事件が起きる。 ・幕府の対外政策を批判した、渡辺崋山(わたなべかざん)は「慎機論(しんきろん)」を、高野長英は「戊戌物語(ぼじゅつものがたり)」を著し、投獄された(蛮社の獄)。 ・1837年、将軍が12代目の家慶(いえよし:家斉の次男)となる。 ・1841年から水野忠邦により、「天保(てんぽう)の改革」が行われる。(株仲間の解散、天保の水薪給与令、人返しの法、上知令など) ・1845年、阿部正弘が老中主座になる。 ・1846年、ビッドルが浦賀に来航するも、幕府は拒否。 | |||
1846-1867 | (121)孝明 (こうめい)天皇 | ・仁孝天皇の第四皇子 ・1853年、黒船来航。 ・黒船来航の19日後、家慶死去。 ⇒13代将軍に家定(いえさだ)就任。 ・老中は阿部正弘(あべまさひろ)。 ・1854年、日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)調印。 ・1857年、阿部正弘が死去したため、堀田正睦(ほったまさよし)が主導。 ・1858年、家定が死去したため、14代将軍に家茂(いえもち)がなる。 ⇒家茂を押していた、井伊直弼(いいなおすけ)が大老に就任。 ・1858年、日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)を締結。 ・1860年、桜田門外の変で井伊直弼が殺され、安藤信正が老中に。 ・1862年、和宮降嫁(かずのみやこうか)問題で信正が切られる。(坂下門外の変) ・1862年、文久の改革(薩摩藩の島津久光が将軍後継職に一橋慶喜、政事総裁職に松平慶永、京都守護に会津の松平容保を付ける)→生麦事件(江戸から帰る時に、イギリス人を切り殺してしまう→薩英戦争(1863)に発展 ・八月十八日の政変で長州が今日から追放される。(薩摩藩は薩英戦争で攘夷は困難と悟った) ・1864年、禁門の変(蛤御門の変)でも長州が潰される。 ・1866年、薩長同盟締結。同年、第二次長州征伐が起きる。その最中、大阪城で家茂が死去。 ・1867年、第15代将軍に慶喜が就任する。(フランスの協力のもと、慶応の改革が行われる) ・同年10月14日、慶喜が政権を朝廷に返上(大政奉還)。 | |||
明治 | 1867-1912 | 明治天皇 | ・孝明天皇の第二皇子 ・孝明天皇の崩御で、満14歳で践祚。 ・1868年が明治元年、神仏分離令が出される。 ・1869年、東京へ遷都。版籍奉還(藩主の土地である「藩」と人民である「籍」を朝廷に返上させ、中央集権化を図った) ・1871年、廃藩置県(「藩」が廃止され、「県」が置かれる)が行われ、地租改正案が出される。 ・岩倉使節団が欧米諸国を歴訪(1871-1873) ・1871年、前島密(まえじまひそか)により郵便制度が発足される。 ・1872年、鉄道開業(新橋↔横浜) *1874年には大阪↔神戸、1877年に大阪↔京都開業 ・1872年、国立銀行条例が制定され、翌年に渋沢栄一が第一国立銀行を設立。 ・富岡製糸場設立。 ・この頃、琉球はまだ琉球藩で藩王は尚泰(しょうたい)。 ・1873年:明治6年の政変(多数の征韓論者が参議を辞職)、(啓蒙思想団体)明六社発足、徴兵令が出る、地租改正(地価の3/100を地租として納税する事に) *征韓派であった西郷隆盛は士族反乱を起こし、板垣退助は自由民権運動を起こす事になった。 ・1874年、佐賀の乱が起こり、江藤新平は処刑。 ・1876年、神風連の乱(熊本藩士の乱)が起きる。また、それに呼応し、福岡で秋月の乱が起きる。 ・1876年、萩の乱が起き、吉田松陰門下生の前原一誠が処刑された。 ・1877年、西南戦争(日本国内で起こった最後の内戦)が勃発。 ・1885年、初代内閣総理大臣に伊藤博文がなる(第一次伊藤内閣)。 ・1888年、第二代内閣総理大臣に薩摩藩出身の黒田清隆がなる。 ・1889年2月、日本帝国憲法が公布される。 ・1889年12月、第三代首相に山形有朋がなる(第一次山形内閣)。 ・1890年11月、日本帝国憲法が施行される。 ・1890年第一回衆議院選挙(男性の25歳以上で15円以上の納税者のみ選挙権があった) ・1891年、第四代首相に松方正義がなる(第一次松方内閣)。 ・1892年、第二次伊藤(第五代内閣)内閣(第五代内閣)発足。 ・1894年、陸奥宗光外相が領事裁判権を撤廃。 (背景に1886年に起きたノルマントン号事件と1891年の大津事件がある*ノルマントン号事件:英国貨物船が沈没した時に日本人全員が見捨てられ、船と一緒に沈没した*大津事件:滋賀県大津市でロシア大使への殺人未遂事件に対して、司法が下した無期懲役刑は司法の独立を示した) ・1894年5月、甲午(こうご)農民戦争がおきる。(東学党の乱ともいう。日本の朝鮮支配に対して起こった農民蜂起。日清戦争に繋がった。) ・1894-1895、日清戦争(日本と清との戦争)→日本勝利→下関条約 ・1895年、(露、仏、独からの)三国干渉で清の遼東(りゃおとん)半島を返還。 ・1896年、第二次松方内閣(第六代内閣)発足。 ・1898年1月、第三次伊藤内閣(第七代内閣)発足。 ・1898年6月、第八代首相に佐賀県出身の大隈重信がなる。(第一次大隈内閣) ・1898年11月、第二次山形内閣(第九代内閣)発足。 ・1900年、第四次伊藤内閣(第十代内閣)発足。 西園寺公望(さいおんじきんもち)が病気の伊藤首相を継いで内閣総理大臣臨時代理に。 ・1901年、桂太郎が首相に。(第十一代首相、第一次桂内閣) ・1902年、ロシア南下政策の対抗措置で日英同盟締結。 ・1904年、日露戦争(旅順要塞陥落、奉天会戦で辛勝、日本海海戦でバルチック艦隊壊滅) ・1905年、ポーツマス条約締結。(全権、小村寿太郎、ヴィッテ) ・1905年、日比谷焼討ち事件 ・1905年、第二次日韓協約締結(第一次日韓協約は日露戦争中の1904年。漢城に統監府を置き、初代統監に伊藤博文がなる。) ・1906年、西園寺公望が首相に。(第十二代首相、第一次西園寺内閣) ・1908年、第二次桂内閣(第十三代内閣)発足。 ・1909年、伊藤博文がハルピンにて、安重根に暗殺される。 ・1910年8月、韓国併合〔朝鮮総督府を置き、初代総督に寺内正毅(てらうちまさたけ)がなる〕 ・1910年、大逆事件(天皇暗殺未遂で、幸徳秋水ら社会主義者を処刑) ・1911年、第二次西園寺内閣(第十四代内閣)発足。 | 文明開化(西洋の文化が一気に流れ込み、制度や習慣が大きく変化した。) | |
大正 | 1912-1926 | 大正天皇 | 1912-1926 ・明治天皇の3男 ・1912年、第三次桂内閣(第十五代内閣)発足。 ・1913年、第一次山本権兵衛内閣(第十六代内閣)発足。 ・1914年4月、第二次大隈内閣(第十七代内閣)発足。 ・1914年7月、第一次世界大戦勃発。 〔国(独、伊、墺、オスマン帝国)vs連合国(露、英、仏、日)〕 ・1916年、寺内正毅内閣(第十八代内閣)発足。 ・1917年、アメリカが対独で参戦。 ・1918年、原敬内閣(第十九代内閣)発足。 ・1918年、第一次世界大戦終結 ・1919年、パリ講和会議でヴェルサイユ条約締結。 ・1920年、国際連盟設立。 ・1921年、高橋是清内閣(第二十代内閣)発足。 ・1922年3月、全国水平社の結成。 ・1922年6月、加藤友三郎(ゆうざぶろう)内閣(第二十一代内閣)発足。 ・1923年、9月1日に関東大震災発生。 ・1923年、9月2日に第二次山本内閣(第二十二代内閣)発足。 ・1924年、1月清浦圭吾内閣(第二十三代内閣)発足。 ・1924年、6月加藤高明内閣(第二十四代内閣)発足。 ・1925年、治安維持法発足、普通選挙法(25歳以上の男性全員) | ||
昭和 | 1926-1989 | 昭和天皇 | ・1926年、若槻禮次郎(れいじろう)内閣(第二十五代内閣)発足。 ・1927年、田中義一(ぎいち)内閣(第二十六代内閣)発足。 ・1929年、浜口雄幸(おさち)内閣(第二十七代内閣)発足。 ・「暗黒の木曜日」といわれる1929年10月24日に世界恐慌が起きる。(満州事変のきっかけとも) ・1931年、第二次若槻内閣(第二十八代内閣)発足。 ・柳条湖事件(1931年9月18日に起きた、南満州鉄道爆破事件)→満州事変(鉄道爆破事件を中国の仕業とし、関東軍と言われた満州にあった日本軍が日本政府の「不拡大方針」を無視して、強引に中国と開戦した) ・1931年12月、犬養毅(いぬかいつよし)内閣(第二十九代内閣)発足。 ・1932年、満州国建国 ・1932年5月15日犬養毅首相暗殺(5.15事件) ⇒政党内閣が終わりを告げ、軍国主義が始まる。 ・斎藤實(まこと)内閣(第三十代内閣)発足。 ・1933年、リットン調査団の勧告を受け松岡洋右(ようすけ)は国際連盟を脱退。 ・1934年、軍部出身の岡田啓介が首相に。(第三十一代内閣) ・1936年2月26日、軍事費を削減していた大蔵大臣の高橋是清が暗殺される。(2.26事件) ・1936年、広田弘毅内閣(第三十二代内閣)発足。 ・1937年2月、林銑十郎(せんじゅうろう)内閣(第三十三代内閣)発足。 ・1937年6月、第一次近衛文麿(このえふみまろ)内閣(第三十四代内閣)発足。 ・1937年7月7日、盧溝橋(ろこうきょう)事件で、内閣の意に反して、開戦。 ・1939年1月、平沼騏一郎(きいちろう)内閣(第三十五代内閣)発足。 ・ノモハン事件でソ連に負け、南下政策の一因となる。(1939年5月-1939年9月) ・1939年8月、阿部信之内閣(第三十六代内閣)発足。 ・1939年9月、ドイツがポーランドに進行して、イギリスとフランスに宣戦布告し、第二次世界大戦の火蓋が切られる。 ・1940年1月、米内光正(よないみつまさ)内閣(第三十七代内閣)発足。 ・1940年7月、第二次近衛内閣(第三十八代内閣)発足。 ・1940年9月、日独伊三国同盟を締結。 ・1941年4月、日ソ中立条約に調印。 ・1941年7月、第三次近衛内閣(第三十九代内閣) ・1941年7月、アメリカ、イギリス、中国、オランダによるABCD包囲網が完成し、枢軸国への経済制裁。 ・1941年10月、東条英機内閣(第四十代内閣)発足。 ・1941年12月、真珠湾攻撃 ・1942年、ミッドウェイ海戦で大敗。 ・1943年2月、ガダルカナル島撤退。 ・1944年7月、サイパン島敗戦。 同じころにブレトンウッズ協定でIMF(国際通貨基金)やIBRD(国際復興開発銀行)できる。 また、同じころ小磯國明(こいそくにあき)が第四十一代首相になる。 ・1944年10月、レイテ沖海戦で敗戦。 ・1945年3月硫黄島日本軍全滅。 ・1945年4/1-6/23、沖縄戦。 ・1945年4/7-8/17、鈴木貫太郎(第四十二代首相)内閣 ・1945年8/15、終戦。 ・1945年8/17-10/9、東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみやなるひこおう)内閣(第四十三代内閣)の時に降伏文書調印。 ・1945年10/9、幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)内閣(第四十四代首相)発足。 ・1945年12月、選挙法が改正され、20歳以上の男女に選挙権が与えられる。 ・1946年5月、吉田茂内閣(第四十五代内閣)発足。 ・1946年11/3、日本国憲法が公布される。 ・1947年、片山哲(てつ)内閣(第四十六代内閣)発足。 ・1948年3月、芦田均(ひとし)内閣(第四十七代内閣)発足。 ・1948年、第二次吉田茂内閣(第四十八代内閣)発足。 ・同年、GATTが設立され、国際貿易の促進が図られる。 ・1949年、第三次吉田茂内閣(第四十九代内閣)発足。 ・1951年、サンフランシスコ平和条約・日米安保条約締結。 ・1952年、サンフランシスコ条約の発効により、日本の主権が回復する。 ・1952年、第四次吉田内閣(第五十代内閣)発足。 ・1953年、第五次吉田内閣(第五十一代内閣)発足。 ・1954年、鳩山一郎内閣(第五十二代内閣)発足。 ・1955年3月、第二次鳩山内閣(第五十三代内閣)発足。 同年、自由民主党が結成され、55年体制が成立した。 ・1955年11月、第三次鳩山内閣(第五十四代内閣)発足。 ・1956年、石橋湛山(たんざん)内閣(第五十五代内閣)発足。 ・1957年、岸信介(のぶすけ)内閣(第五十六代内閣)発足。 ・1958年、第二次岸内閣(第五十七代内閣)発足。 ・1960年7月、池田勇人(はやと)内閣(第五十八代内閣)発足。 ・1960年12月8日、第二次池田内閣(第五十九代内閣)発足。 ・1960年12月27日、「所得倍増計画」が閣議決定される。 ・1963年、第三次池田内閣(第六十代内閣)発足。 ・1964年4月、日本がOECD(経済協力開発機構)に加盟。 ・1964年、東京オリンピック開催。 ・1964年11月、佐藤栄作内閣(第六十一代内閣)発足。 ・1965年、日韓基本条約批准(日韓国交正常化) ・1967年、第二次佐藤内閣(第六十二代内閣)発足。 ・1970年、第三次佐藤内閣(第六十三代内閣)発足。 ・1970年、大阪万博開催。 ・1971年8月、ニクソンショック(変動相場制) ・1971年12月、スミソニアン協定(固定御相場制) ・1972年、札幌オリンピック開催、沖縄が日本復帰。日中国交正常化。 ・1972年7月、田中角栄内閣(第六十四代内閣)発足。 ・1972年12月、第二次田中内閣(第六十五代内閣)発足。 ・1973年、第一次石油危機(高度経済成長の終焉) |
古事記などによると、日本の天皇家の起源は紀元前660年にさかのぼり、今日、世界で最も古い歴史を持つ皇室です。初代の神武天皇が即位された時の確かな記録は残っていないので、「2600年以上の歴史がある」とは誰も断言できませんが、実在が確かな天皇から数えても、世界最古だそうです。
歴史学は文字で書かれた史料をたどる学問です。日本人が文字に最初に出会ったのは1世紀頃と推測されています。後漢書東夷伝に57年に「倭(わ)の奴(な)国王」が中国に王様として認めてもらったという記述があり、その証に金印が授与されたという事です。その金印に彫られている「漢委奴国王(かんのわのこくおう)」という漢字が日本で発見された最古の文字だそうです。また、稲荷山古墳(埼玉県)や江田船山古墳(熊本県)で出土した5世紀ごろのものと思われる鉄剣には漢字での銘文があります。
しかし、その当時の識字率は極めて低く、6世紀に入ってからやっと読み書きできる人が増えだしたようです。仏教が中国大陸から日本に入ってきたため、その書物を読む能力が必要になったので、少しずつ漢字を読み書きできる人が増えました。
良きも悪しきも、島国であるゆえに、独自の文化を形成できた日本には、他の国にはない素晴らしい文化を形成できました。日本の歴史を単なる暗記科目としてではなく、日本人として理解し、今後の未来を思い描く礎にできればと思います。