勉強する事の大切さについて
「学問のすすめ」で福沢諭吉が提唱している、「独立自尊」が勉強する目的の本質だと思います。平たく言えば、「自分で稼いで食っていくため」という事です。
この本が書かれた時代背景には、明治維新が起こり、文明開化とともに西洋の国々と渡り合わなくてはならない様な日本の状況がありました。彼のメッセージは「お上に頼らず、指示待ち人間にならず、己の力で判断し行動しなければならない」という事でした。植民地化された国々の状況を目の当たりにして、そのような事にならず、西洋の国々と渡り合えるように、国民一人ひとりの意識を高める事が目的でした。
この考え方は、現代の日本に生きる私達にも通じるところがあり、社会人として生きる上でも「指示待ち人間」ではなく、主体的に動き行動する事が求められます。そのためにも、色々な事を積極的に勉強して、自らの人生を切り拓いていってもらいたいと思っています。
勉強する意味とは
「なんで勉強なんかせなあかんの。算数でも、足し算と引き算だけできたらそれで毎日の生活に困らんやん。」
よくこの様に思い、学校の勉強をしなくて良い理由を探していた事を覚えています。しかし、算数ひとつとっても、そのほかの掛け算や割り算、分数等の基礎的な事が分かっていないと、それ以上の数学の計算はできないです。また、色々な勉強は気づかないうちに結びついていることが多くあります。
「机上の空論」(現実から離れた議論や計画では、実際はなんの役にも立たない事)という言葉があるように、「学校で習う事より、普段の経験から学ぶことの方が実質的や。」なんていう風に偉そうに思った事も1度や2度ではありません。「頭でっかち」なんていう言葉もある通り、考えてばかりで行動を伴わない事(勉強)を揶揄した事もありました。
その様な物の見方に、ひとつの答えを出してくれたのが、下の文章です。
「人間はどんな人だって、1人の人間として経験する事に限りがある。しかし人間は言葉というものをもっている。だから、自分の経験を人に伝えることもできるし、人の経験を聞いて知ることもできる。その上に、文字というものも発明したから、書物を通じて、お互いの経験を伝えあうこともできる。そこで、いろいろな人のいろいろな場合の経験をくらべあわすようになり、それを各方面からまとめあげてゆくようになった。こうして、できるだけ広い経験を、それぞれの方面から、矛盾のないようにまとめあげていったものが、学問というものなんだ。
だからいろいろな学問は、人類の今までの経験を一まとめにしたものといっていい。そして、そういう経験を前の時代から受け継いで、その上で、また新しい経験を積んできたから、人類は野獣同様の状態から今日の状態まで、進歩してくることができたのだ。
一人ひとりの人間が、みんないちいち、猿同然のところから出直したんでは、人類はいつまでたっても猿同然で、決して今日の文明には達しなかったろう。、今までの人類の経験から教わらなければならないんだ。
だから僕たちは、できるだけ学問を修めて、今までの人類の経験から教わらなければならないんだ。」(君たちはどう生きるか 吉野源三郎著 より)
つまり、勉強する事は、(普段話しを聞いたりする事のできない現代や)昔の人々とコミュニケーションを取って、色々学び、私たちのこれからの人生を豊かにしていく事です。この様な事も深く考えず、子供の頃「勉強」と聞くと「嫌な事」の代名詞の様なものでした。「ガリ勉」という言葉もあり、「真面目に勉強する事が恥ずかしい」と思っていた時期もありました。
私の子供達も、私の子供の頃に似ていて、「勉強」に対してあまりいい印象を持つことができておらず、「勉強は(身体を動かして遊びたいのに)座らされて、読みたくもない教科書を読まされ、興味が湧かない話を聞かされる事」と思っているようです。
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」
これはドイツの鉄血宰相と呼ばれたオットー・フォン・ビスマルクの言葉です。経験から学ぶ人の事を「愚者」と言い切るのは乱暴な気もしますが、やはり「私たちが個人で経験を得るのは、限界があるから、積極的に勉強して、経験の先取りを行う事が私たちができる最善の事」だと思います。
今までに先人たちが到達した事を謙虚に受け止め、私たちなりに咀嚼してこの先に繋げていく事が今を生きる私たちの務めだと思います。未来の私達の子孫のために、つながるメッセージを紡ぎあげていく事が、今を生きる私達に課せられた義務の様な気がします。
この地上に義(ただ)しい者は1人もいない(伝道の書7章20)
これがユダヤ教の根本的な考え方です。
日本で私たちが受ける教育は、多くの場合「正解」があり、その答えを追求する事が主要な流れになっています。資格試験などでも、多用されているマークシートを用いたテストでも1つの設問に対しての答えが〇か✕かのどちらかで、必ず正しい答えがあります。この様な試験を多く経験している私たちは、どこかで「物事には必ず正しい答えがある」と思い込んでいます。
しかし、実社会に生きる私たちは「物事には必ず正解があるわけではない」という事も、日々感じている事の一つだと思います。「表裏一体」という言葉があるように、物事には正解と不正解の両側面があります。
この様な事を考えていると冒頭の「この地上に義しい人は者は1人もいない」という言葉が頭に浮かびます。イスラエルなどのユダヤ社会では「誰でもどこか間違っている」という前提で、答えを限定せず、議論を重ねる事が多いそうです。
ノーベル賞受賞者の4人に1人はユダヤ人
ノーベル賞を受賞する人の多くはユダヤ人と言われます。ウィキペディアによると同賞受賞者の20%はユダヤ人だという事です。世界人口のわずか0.2%しかいないユダヤ人がこの様な割合でノーベル賞を受賞している理由を様々な人が色々な事を言っています(「世界経済を牛耳っているから」だとか「遺伝的な要因がある」等)が、その理由の一つにこの「この地上に義しい人は者は1人もいない」という根本的な考えがあると思います。
私たち日本人は、儒教の影響もあるためか、権威や権力に対して従順になる姿勢が習慣化してしまっている面があります。(「儒教が間違っている」と言っているわけではありませんよ)「フロイトによれば」や「カントによると」等という文章をよく見かけます。(この文章もその1つです)しかし、ユダヤ人はあまりその様な表現を用いず、「誰でもどこかまちがっている」という前提で答えを限定せず、どんどん議論を重ね、「考え続ける」という習慣がこの様な結果を生み出しているのではと私は思います。
「みんな、死ぬまで勉強せなあかんのやで。」と私の子供達に言うと、「えー、いややー」と口をそろえて言います。こんな気持ちを私も理解でき、自身の子供の頃も勉強が嫌いで、「学校に無理矢理させられるもの」と思っていました。しかし、自身が社会に出てみて、今さら「勉強して、知識(武器)を増やすことの大切さ」や「論理的に考える事の大切さ」を身に染みて感じています。
子供達には社会に出るまでに、考え(続け)る事の大切さを理解し、その癖をつけてもらいたいと思っています。その一助になれる様にこのサイトを作っています。
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