約20年ほど前に小さな町の公民館で、それも小さな劇団の演劇を見たことがあります。公民館の1室だったこともあり、劇をされている方との距離は4~5mとすごく近くでその演劇を観る事になりました。
すぐそばで、先ほどまで廊下で談笑していた人達が、泣き崩れたり、怒り狂ったりされているのを見て、違和感しかなかったのを覚えています。演劇の内容は忘れてしまいましたが、覚えている事は「わざとらしい」や「大袈裟」と抱いた演劇に対してのネガティブな感想です。
普段から心がけている事に、「人によって態度を変えたりしないでおく事」や「できるだけ嘘をつかない事」があります。この様な事は「演じる事=嘘をつく事=良くない事」という事になるとも思っていました。
平田オリザ氏の話
今まで、言語聴覚士学会をはじめとする、色々な学会や集会に参させていただきました。その様な集まりで、「特別ゲスト」の様な位置づけで有名人や著名人が話してくださることがあります。そんな講演を沢山聞いた中で、演出家で劇作家の平田オリザ 氏の話は印象に残っている話の1つです。
彼の話は、「秋葉原通り魔事件 」の事から始まりました。
死刑となった秋葉原通り魔事件の加藤被告は裁判で、「良い子を演じさせられてきた」と証言したが、「本来人間は演じるものだ、普段から演じるのが普通で、父親になったら父親の、教師になったら教師に相応しいふるまいをして、生きるものだ」という様な趣旨の話をしてくださいました。
彼はまた、「演じる事は人間に限った事では無く、例えば野生のゴリラも、群れのボスになったその日から、ボスの役割を演じて集団を統率するようになるものだ」とも言っておられました。
この話を聞くまでは、上記した様に「演じる事=良くない事」だと思っていましたが、それからは演じる事にそこまでネガティブな感情を持たなくなりました。
ある青年の話
20数年前、電気工事士として働いていた時に、ある有名大学の医学部の教授の家の改修工事に行く事がありました。そこには同じ大学の医学部に合格した息子さんがいました。
有名大学の医学部に合格するぐらいなので、沢山勉強されてきたのは想像が難しくないのですが、そんな彼に、親からたくさん勉強するように言われたか聞きました。
その答えは「あまり勉強しなさいと言われた記憶はない」というものでした。
彼が言うには、大学教授であるお父さんは仕事から帰って、夕食を食べた後は、だいたい書斎にこもって勉強をされていたそうです。「たぶん、論文等を書いていたのだと思う」と言っておられました。そんな父親の姿を見て育ち、自然に机に向かう様になったそうです。
真似
社会で生きる私達は生物として必要な本能以外に、学びが必須です。
「学ぶ」の語源が「真似る(ぶ)」にあるといわれる通り、真似をする事から私達の学習は始まっています。(参考:学ぶとは – 語源由来辞典 )つまり、私達の成長発達の基となる学びは真似をす事が基本となっています。
学ぶためには真似をする対象が必要となりますが、それは身近な家族になる事が多く、代表的なの身近な家族とのコミュニケーションです。特に言葉は覚える為に、お母さんの発する声かけをできる範囲で赤ちゃんは少しずつ真似をしていきます。
この「できる範囲」というのが重要で、勉強や運動も誰かに何かを習う時に、「こんな事できない」と思ってしまうほど、ハードルが高すぎると、学習意欲は萎えますが、「できそうだ!」と思うと、真似をしてやってみようと思います。
ロシアの心理学者のヴィゴツキーが提唱した「発達の最近接領域 」も「子供の発達には1人でできるところから大人のちょっとした働きかけでできる様になるところがある」という事を言っていて、少しだけ難しい手本を提示して、真似をしてもらいながら学んでもらうとその学びはスムースに進むことになります。
自身の話
良いご縁にも恵まれて、結婚する事ができ、ありがたい事に子供にも恵まれました。それまでは実家に住み、両親の息子というという立場で、彼らに頼った人生を送っていました。
しかし、結婚してからは頼り甲斐が無いのはあまり変わりませんが、夫となり、二人の生活のあらゆる場面で決断をする機会ができました。住む家を決める事はもちろん、買う車から食べる物や契約する電力会社等、また家族で余暇として行く所まで様々な所で(大袈裟ですが)決断をしています。
そのような時、思考回路としては「夫として、また父親として何をすれば良いか、または何を言えば良いか」という考え方です。それは、本当(?)の自分を押し殺して、私を「夫」や「父親」にしてくれている家族の事を考えての行動になっています。
特に、子供達には、少しでも良い未来をつかみ取って欲しいので、真似をしてもらえる様な、「お父さん」や「大人」を演じていきたいと思います。
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