様々な局面で、「理解」の大切さを感じる事があります。
仕事や勉強、趣味や家事、そして人間関係等、私達が日々関わる物事に関して、この「理解する事」は欠かせない要素で、これを蔑ろにするとろくな事にならないと思います。
中学生の時の勉強の仕方
中学生の時は野球部に所属し、運動を毎日しさえすれば、人生が充実していると思っていました。
「ガリ勉」という言葉があった(ある)様に、当時は勉強する事にあまり良いイメージは無く、「元気に身体を動かし、友人と戯れている事が健全」だと思い、「勉強をする事は健康的でない」とさえ思っていました。その様なスタンスで、(学校の)勉強と向き合っていたので、勉強は「学校のテストの点数さえ取れていれば良い」ぐらいにしか思っていませんでした。実際は、その「点数」さえ取れていませんでしたが、そこには色々な意味の「理解」が欠けていたと思います。
その様な理由から、定期テストの勉強の仕方も表面的で、数学の問題は丸暗記した公式などに問題を当てはめ、定型的に問題を解答する様な事しかしていませんでした。その為、文章問題になると全く歯が立たず、完全に諦めていました。また、歴史などの暗記科目では、年表の単語などを赤色のマーカーで塗りつぶし、緑のシートでそれを覆い、塗りつぶした単語を見えなくして、その単語だけ、まる憶えしていました。そんな勉強の仕方をしていたので、テストが終わると、テスト対策で覚えていた事はすっかり忘れてしまう事を繰り返していました。
国語(現代文)の成績は更に酷く、暗記で済ませる事のできる漢字の問題は、何とかなっていましたが、文章を読んでそれについて解答する様な問題では、専売特許の暗記での対策では全く歯が立たず、どのように対策すれば良いのか、全くわかりませんでした。
当時の私は、「勉強=丸暗記」という様に思っていた為、理解を伴う事が無い、勉強の仕方をしていました。
その様な勉強に対する姿勢を根本から変えたのは、塾でも学校の先生でもなく、「読書習慣」でした。
勉強嫌いな私でしたが、何とか高校生になった時のクラスメイトが小説「竜馬がゆく(司馬遼太郎著)」を読んでいるのを見て、単純にカッコ良く思い、真似をしてその本を読むようになりました。それまで、本は少年ジャンプぐらいしか読んでいなかったので、文字しかない本というのは「面白くない」と思っていた教科書しか、読んだ(見た)事がありませんでした。
しかし、単に友人の真似をして、始めた小説の読書が、それ以降の学校等での学習を促進させてくれました。その小説は、その時の私にとっては意外に面白く、すぐにのめり込んでいく事ができました。
そこには、坂本竜馬だけではなく、教科書で見たことがある幕末の人物がイキイキと描かれていた為に、歴史の勉強で丸暗記した西郷隆盛等、有名な人の人柄などを垣間見る事ができました。当たり前の事ですが、それらの人物にも気持ちや生々しい物語があり、それを感じる事は漫画や映画を観るのと同じように、楽しい経験でした。
この様に、歴史を英単語の様に丸暗記していただけの勉強から、映画や漫画と同じ様なストーリーとして理解するようになり、自然と歴史上のでき事等が頭に定着するようになりました。
そして、面白く小説を読ようになってからは、その他の教科書に書いてあるものも文章として頭に入れ、理解する事ができはじめ、色々な科目の文章を容易に理解し、頭に定着させることができるようになり、成績も上がり出しました。
ウェルニッケ失語
脳血管障害を起こすと、失語症と言われる症状が出る事があります。言葉を司る脳の部位に障害が起こり、言葉を理解したり、話したりしにくくなるものです。
一口に「失語症」と言っても、症状は人によって違い、他人の話している事は理解できるけれども、言いたい事を上手く言葉で話せなくなる人や、話せるけども、他人の言っている事があまり理解ができない人等、色々います。
それは、障害された脳の部位に大きく因るところがあり、例えば理解を司る左側頭葉にあるウェルニッケ野という所で出血などが起こると、他人が話したり書いたりする言葉を理解できないという事が起こります。(ウェルニッケ失語や感覚性失語と言われます)
また、ブローカー野という所で起こる障害は、理解できるのに上手く話せないといった様な症状が起こります。(ブローカー失語や運動性失語と言われます)
実際は、失語症と言われる症状はその他にもあり、文字を読む事が苦手になったり、書く事が苦手になったりと色々な症状があります。これらの様な症状がくっきり出る事は少なく、色々な症状が入り混じる様な症状を呈する事が多くあります。程度の差も千差万別である程度理解できて、言いたい事が表現できる人から、全く喋る事ができなくて、言われている事も理解できない様な人もいます。
この様な失語症の患者さんのリハビリのお手伝いしていると、(これはあくまで、主観で「絶対」とは言い切れないのですが)こちらの伝える事が理解しずらくなった人よりも理解はできるけど表出し(喋り)辛くなった人の方がリハビリが捗る傾向にありました。
この他に、嚥下障害を起こしてしまった患者さんに接していても、こちらが言っている事を理解していただける方と認知症等で、あまり理解していただけない方とでも差がありました。(やはり、しっかりコミュニケーションを取れる方が嚥下障害のリハビリも捗りやすい印象でした。)
人間関係
社会の中で生きる私達にとって、「人間関係」は人生の根幹です。少なくとも、私にとって極めて大切な要素です。そして、その人間関係においても他人を理解する事は大切な要素である事は、その根幹と言っても言い過ぎではないと思います。
この他者理解は、発達と共に獲得していくもので、幼児期から児童期にかけて大きく発達するといわれていますが、別に児童期に限った事では無く、その後も発達したり、変化するものだと思います。特に、社会の在り方が変化していて、直接的な関りだけでなく、インターネットなどの媒体を介した色々な人との関わりが増え、その形も増え続ける中で、他者を理解する事が増々奥深くなって(変化して)います。
インターネットでこの様な文章を綴っていても、どこでどの様な人が読んでいるかわからず、良いと思って書いた事でも傷ついている人がいるかも知れません。当たり前の事ですが、世界中に居る人それぞれが全く違うので、感じ方や考え方も違ってきます。
その様な社会に居させてもらうには、ずっと色々な人や物の考え方や感じ方を理解する(努力の)必要があると思います。
この様な事を書くと、「生きるためには人間関係の為に努力しなければならないのかー、しんどい」という様な結論になりそうですが、少し考え方を替えて、「新しい考え方や感じ方を知る事ができる」という様な考え方をしていくしかないと思います。
ただ、人間関係においては「他者理解」だけでなく「共感性」も社会の中で必要で、共感性の伴わない他者理解は他人を欺く事に悪用されかねないという事です。(参考:他者理解と共感性の発達ja (jst.go.jp))
まとめ
理解する事は、私達が生きていく中で、本当に大切な事だと思います。しかし、社会が多様化する中、色々な人や物ごとを理解する事は難しく、労力が必要な事だと思います。
そんなことを思うと、中学生の時に丸暗記で乗り越えようとしてしまっていた様に、分かったつもりになって、深く考えようとせず、自分の都合のいい結論に帰結してしまいそうになります。しかし、中学生の時の事(結局は遠回りしていた事)を思い出して、色々な事に対して理解する姿勢を保って行く事を自戒の念の様にここで書き留めておきたいと思いました。
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