相模原事件の 植松被告は「最低限度の自立ができない人間を支援することは自然の法則に反する事」と言っていましたが、「最低限度の自立」とはどう言う意味でしょうか。「食べる事」、「排泄の処理」、「移動」…くらいですか。まず、何をもって「最低限度」とするかは、それを判断する人によって違うと思います。
例えば、長年世界の物理学会を牽引してこられ、去年亡くなられたスティーブンホーキング博士は筋萎縮性側索硬化症(ALS)を50年以上前に発症され、長い間車椅子生活を送られていました。晩年は、意思を伝達するために、重度障害者用意思伝達装置を使って、コンピュータープログラムによる合成音声を利用されていたそうです。
彼はおそらく、植松被告の言う「最低限度の自立」はできていなかったと思います。彼の基準でいうと、彼が生きる価値はなかったのでしょうか。 ‘たまたま’ホーキング博士は現代の先進国の1つのイギリスに生まれ、物理学に出会う事ができ、それを通して、彼の能力を発揮することができたために、活躍できたかのもしれません。また、 ‘たまたま’現代に彼の意思を引き出すことのできる装置が開発されていたために、彼のメッセージを私たちが受け止める事ができたのかもしれません。彼が存在する時代が、もし100年前のアフリカの秘境であれば、誰も彼の能力を知りえず、その恩恵にあずかれなかったかもしれません。ということは、今もどこかで、すごい能力を持っているにもかかわらず、受け取る側の私たちの能力が低いがために、そのすごい能力を発見されずにいる人がいるに違いありません。
何をもって「最低限」とするかも曖昧だし、被告の基準に合わして、「できていない」からといって、「全てにおいて能力がない」とすることはできないと思います。
また、「自然界の法則」と言っていたようですが、もし自然界の法則に当てはめる事をするのであれば、例えば、世話になった両親を介護するなど、私たちが行っている活動の多くが自然の法則にそぐわない事かもしれません。そして、彼自身が行った「殺人」が一番自然界の法則に反する行為だと思います。
自然界で行われていない行為であれば、すべきではないとするならば、私たちが行っている様々なことが、自然界では行われていません。逆に、自然界の法則に当てはまらないけれども、人間である事で、できうる美徳として考えられないのかと思います。
私自身も障がい者として色々な公的な補助の恩恵を受けて、日々生活しています。この様な身分で自立について語るのはおこがましいかもしれません。また、そういう意味では、この様な事を偉そうに書いても説得力に欠けるかもしれません。
ただ、本当の意味での自立を成し遂げている人はこの世に何人いるのでしょうか。ほとんどの人は誰かに依存して生きていると思います。父親として子供を養ってもいますが、全面的に子供が私に依存しているのではなく、子供が支えとなって私自身も生きる勇気(という言葉が正確かは分かりません)をもらっていると言えます。
福沢諭吉さんの説いた「独立自尊」の精神をこのグローバル社会では、1人ひとりが目指すべきだと思います。しかし、その形は人によって違い、できているかどうかを他人が勝手な基準で判断するものでもないと思います。
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