心失者

障害者について

数年前に起きた相模原事件の被告が犠牲となった方々を、「心失者」という呼び方をしていました。言葉が喋れなかったり、対話者の話しかけにうまく表現して対応できなかったりする方をそのように呼んでいたということです。

相模原事件(相模原障害者施設殺傷事件)

 2016年7月26日未明、神奈川県相模原市にある「津久井やまゆり園」に元施設職員の男が侵入し、入所者と職員合わせて45人を死傷させた事件。

 この事件の植松被告は「理性と良心とを授けられていない人」として、施設利用者の多くをこのように呼んでいたようです。また、利用者を「奇声をあげて走り回る者、急に暴れ出す者」などと表現し、「最低限度の自立ができない人間を支援することは自然の法則に反する事」と言っていたそうです。

 まず、他人が話しかけたりされて、その話かけた人がわかる応答をしていないという事だけで、「心が失われたような人」という表現である「心失者」と呼べるのでしょうか。重度心身障害を持った人は色々な事を感じ、思うことがあっても、うまく表現できないだけで「心が失われている」というような事は一概には言えないと思います。しかし、被告に対して偉そうに言えない事を私も沢山してきました。

 約10年前まで、勤務していた病院で、重度の認知症などを患い、寝たきりとなってしまった患者さん達を、ST(言語聴覚士)として評価をする事がありました。こちら側の問いかけに対してうまく応答できない人に対して、「評価不能」の文字だけを評価用紙等に記入して、担当医に返していました。この文字を書くときの気持ちがその犯人の気持ちに近くなかったと言うと嘘になるような気がします。

 その病院を退職後の事ですが、研修会である支援学校の先生が「重度の障害を負った障害児の発達等を評価するにあたって、「評価不能」というような、機械的な言葉を簡単に使って、切り捨てるような評価を下す専門家に対して、「『評価不能』ではなく、『私には評価する能力がありません』と書いて欲しい。」と言っておられました。この言葉を聞いた時は、身につまされる思いでした。

 何かを評価する時は、ある一定の評価尺度を使用し、それに沿った評価を行う事で、その事を基準にした評価はできます。しかし、その評価でその人や物の全体を評価することはできません。

 以前、ダウンタウンの松本人志さんはご自身の著書の中で、「よく雑誌なんかで彼氏にしたくない芸能人No.1にされたりするが、そんな記事を読むと、普通に歩いている時に、いきなり他人に横に並ばれてヨーイドンと掛け声をかけられ、走る気もないのに走らされ、かけっこで負けた気分がする。」と書いておられたことを思い出します。

 「裸の大将」で有名な山下清さんは幼少の頃、重い消化不良の影響で言語障害と知的障害を負われました。はじめは小学校の普通学級に通われていたそうなのですが、いじめられたり、学校の勉強についていくことができなかった事もあり、知的障害者施設に入所することになったそうです。小学校では評価されることがあまりなかったそうですが、その施設でちぎり絵に出会い、彼の才能が開花し、世間に認められる(評価される)事になったそうです。 山下清さんの才能を見抜く「貼り絵」という評価尺度がたまたま私たちが持ち合わせたために私たちが彼の才能に気づくことができたのだと思います。

  もしかすると(というか絶対に)「重度の障害がある」と言われる人の中にも、 (私たち凡人がその能力に気づく方法を知らないだけで) すごい能力を秘めた方が多くいらっしゃると思います。もし、「良い」か「悪い」で表現しなければならないとすると、 悪いのはそれに気づくことができない方かもしれません。 このような事からも単に私たちがわかる方法で自分を上手く表現できない(しない)人を、「心失者」などと評価する資格が誰にあるのでしょうか。

 

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